髪形、奇抜ジャージーで話題の74歳・細川たかし 21歳の弟子が感じたすごみ「明らかに客層が変わった」
デビュー5年目、彩青の歩みと思い
大谷翔平の二刀流を上回る三刀流の演歌歌手がいる。21歳の彩青(りゅうせい)だ。15日、74歳になった大御所・細川たかしの弟子で、デビュー5年目。歌はもちろんのこと、三味線、尺八を演奏し、存在感を示している。それを勧めたのは師匠の細川で、16歳でのデビューも細川の判断だった。髪形からジャージーまで何かと話題の師匠に教えられていること、彩青自身のビジョンを聞いた。(取材・文=坂根重昭) 【写真】「やばいねこりゃ笑」 ドクロジャージを着た細川たかしが大量増殖した新曲のジャケット写真 「彩青」は芸名ではなく本名だ。当時、北海道で福祉の仕事をしていた父親は高校時代、Jリーグ・サンフレッチェ広島のユースチームに所属。そのため、W杯日韓大会開催の2002年に生まれた息子に願いを込めた。 「サムライブルーの日本代表のように世界へ羽ばたいて欲しい」 だから、彩青=りゅうせい。だが、息子はサッカーが苦手だった。 「やってみたら、てんでダメで、ボールが来たら避けてました(笑)」 父は「息子と一緒にできるようなことは何かないか」と思案を巡らした。そして、彩青が5歳で民謡を習い始めると、初めて尺八を手にした。 「父は額に汗をかき、夕陽に向かって『バカやろー』というくらいの根っからの体育会系人間で、体育教師の資格も持っています。ただ、私が民謡を習って三味線を始めると、『自分は何か違う楽器がいい。尺八だな』と思ったようです。そして、父が私に合わせ尺八で伴奏をするようになり、私も見よう見まねで吹き始めました」 父の「何とか息子と心を通わせたい」という思いが、彩青を三刀流に導いた。中1で初めて民謡の全国大会「中学校の部」に出場。伴奏を担当するはずだった尺八の先生が急用で来れなくなると、「俺がやる」と立候補した父の伴奏で、『十勝馬唄』を歌い上げた。 「それで中学生日本一を獲らせていただいたものですから、本当に忘れられない記念ですね。民謡を歌うことはとにかく楽しかったです。だんだんと歌詞の内容が分かってくると、歌を聴くだけでその土地の風土を感じることができる。その魅力にひかれていきました」 練習のため、岩見沢市の自宅から千歳市に片道1時間をかけて通い続けた。幼少期は「民謡の先生になりたい」と思っていたが、さまざまな場所に出掛け、人前での歌唱を続けている中で夢は変わっていった。 「民謡だけじゃなく、最後の2~3曲はお年寄りの方も知っている演歌を歌ってみようということになっていきました。ウチのおばあちゃんが演歌好きだったこともあります」 好んで歌っていたのが、この時点では面識がなかった細川の『北酒場』や三橋美智也さんの『哀愁列車』。歌声でお年寄りに元気を与えるボランティア活動だ。この姿を見ていた父からのアドバイスが、彩青の背中を押した。 「福祉の仕事をしていた父に『僕も福祉の方やろうかな』なんて話したんです。すると、父は『うれしいことだけども』と言いつつ、『音楽を通じての福祉もできるんだよ。歌で皆さんを元気にさせる。それも一つの福祉なんだよ』と教えてくれました。その話をきっかけに、私は本格的に歌手を目指し始めました」 そして、小6で細川と出会った。『歌の上手いキッズ軍団』と細川が率いる演歌軍団が対戦するテレビ歌番組で声をかけられた。 「師匠が『彩青くん、なかなか11歳にしては民謡にこぶしがあるね。声変わりを上手く乗り越えられたら、一緒に頑張ろう』という約束をしていただきました」 程なくして、声変わりはやって来た。 「1週間に半音ずつ声が下がっていくのが、ハッキリと分かりました。高いキーで練習していたら、『ちょっと出づらいな』と思って、『じゃあ、半音下げよう』の繰り返しでした。結局、『3音半』ぐらい下がりました。そこから一気に上げると、声を潰してしまうので徐々に慣らしていきました。結果的にそれが良かったです」 声変わりは中3までの4年間で落ち着いた。そして、正式に細川から指導を受けるようになった。ただ、「デビューは20歳前後で」と言われており、彩青は地元の岩見沢緑陵高に進学。同級生たちと高1の生活を楽しんでいたが、同年12月、細川本人から唐突に「デビューが決まったよ。来年6月26日に」の連絡が入った。 「師匠からは『とりあえず、学校を辞めてデビューまでの間はガッチリと歌を勉強しなさい』と言われました。親は『(高校を)本当に辞めていいんだろうか、通信でも行っといた方がいいんじゃないか』と言っていましたが、私はここで『歌で生きていく』と腹を決めて学校を辞めました」