家康から「もっとも愛されなかった息子」は誰か? 現代なら“毒親”レベルの塩対応とは
家康にもっとも愛されなかった息子とは誰なのか? 結城秀康の名があがりやすいが、秀康が亡くなったとき、家康は嘆き悲しんだ。実は、秀康以上に愛されなかった息子がいる。それが、秀忠の同母弟・松平忠吉である。忠吉は鉄砲傷を負っても心配されず(一方で家康は井伊直政に薬を塗った)、病死したときも悲しまれなかったのだ。どういうことなのだろうか? ■わが子を3年間「無視」した家康 日本史屈指の苦労人のキャラクターで知られる徳川家康。しかし、少年時代から苦労を重ねすぎたからか、家康は感情表現において問題を抱えており、それはわが子に対しても同じでした。 家康にもっとも愛されなかった息子として、歴史好きならすぐに思いつくのは、結城秀康の名ではないでしょうか。秀康は、家康が側室・於万の方との間に天正2年(1574年)に授かった次男ですが、なぜか於義丸という幼名で呼ばれていた時期から、父・家康からは理不尽なまでの「塩対応」を受けていたことで知られます。 成長後に親子の関係がこじれたというのならまだしも、『柳営婦女伝系』によると、当時、家康の嫡男だった松平信康にほとんど騙されるような形で対面するまで、約3年間も於義丸とは会おうともせず、放置していたという逸話があり、家康はわが子に耳を疑うような冷淡さを示しているのです。 理由として、於万は於義丸ともう一人の男の子を双子として出産しており、これが武家の慣習的に不吉、もしくは「畜生腹」として忌み嫌われたという説、あるいは於万の方の家康が浮気を疑い、仲がこじれてしまったので、そのトバッチリを於義丸が受けたとする説、於義丸の容貌が気に入らなかった説などもあります。 が、罪なき赤児を一方的に嫌い、生後3年間、無視し続けるという家康の態度に共感することは難しいでしょう。今日でいえば確実に毒親です。 ■松平忠吉が病死しても鷹狩りした家康 不幸な於義丸は数え年11歳で、家康と秀吉が正面衝突した小牧・長久手の戦いの講和条件の一つとして、秀吉の養子となりました。17歳のときには、秀吉の小田原攻めに協力した結城晴朝のもとに養子として送られるなど、数奇な少年時代を過ごします。 その後、天正7年(1579年)生まれで、秀康の異母弟にあたる秀忠が家康の後継者に定められ、秀康は結城家に養子に出たまま、徳川本家に呼び戻されることもなく、慶長12年(1607年)、梅毒だと目される病気で、34歳の若さで亡くなってしまいました。 しかし、秀康の死を聞いた家康は感情を爆発させ、嘆き悲しんだそうです。 興味深いことに、慶長12(1607年)、秀忠の同母弟・松平忠吉が病死したと伝える使者が来たとき、家康は「『この頃の(忠吉の)病状ならばそうであろう』とおっしゃり、いつもどおりに『鶴の吸い物を作れ。鷹狩にでも行こう』と、それほどご悲嘆の様子」は見せませんでした。 家康の側に控えていた天海僧正も家康をいたわる言葉をかけていますが、「秀忠が、弟を失って悲しんでいるだろうから、それだけが心配だ」などと言い切りました(『東照宮御実記』)。 忠吉以上に長年疎遠だったかのように見えていた秀康の死を、家康がとつぜん嘆き悲しんだことはよほど不審だったらしく、「忠吉の死は堪えることができたが、それからさほど経っていないうちに結城殿の死の知らせに接して、さすがに我慢できなくなってしまったのであろう」と『東照宮御実記』は結論づけていますが、いかにも不自然な気がします。