「おふくろに会いてぇな」訓練後に仲間と漏らした弱音 101歳が語る特攻隊員の現実
連載「いま、特攻を考える」
9月下旬、茶道裏千家の前家元、千玄室さん(101)は鹿児島県を訪れた。元特攻隊員の一人として、所属部隊が出撃した同県鹿屋市の戦没者追悼式に出席するためだった。 【写真】基地での茶会で茶をたてる千玄室さん 「私だけ、どうしてこんなに長生きしているんだろうか」。出撃を命じられないまま終戦を迎えた。 千利休を祖とする裏千家の嫡男に生まれ、大学在学中の1943年10月に学徒出陣した。「家を継ぐとか家元の息子とか、すべてを捨てて海軍に入った」。士官教育の後、徳島海軍航空隊へ。1年半かかる訓練を10カ月でこなすように命令され、上官から「おまえたちは死にに来たんだ」と毎日言われた。 45年3月、特攻隊への志願が募られた。「熱望」「希望」「否」-。熱望と書くしかなかった。否とした者もいたと聞くが、結局、200人ほどの全員が「特別攻撃隊要員」とされた。事実上の命令だった。 「いらんこと言うたら、すぐ『反戦主義』や。遺書にも立派なことを書かないとしょうがない」。仲間で食事を囲んでも、誰も本心を語らなかった。 ■ 実戦機が不足する中、徳島海軍航空隊では、練習機「白菊」による特攻隊が編成された。最高速度は零式艦上戦闘機の半分以下。両翼に250キロ爆弾を取り付けるとさらに鈍足になった。夜間に明かりも付けずに海面近くを飛び、沖縄沖の米艦船を目指す。5度の出撃で計56人が命を落とした。 ≪おもちゃみたいな飛行機で沖縄まで飛べるわけがない。小学生でも分かる≫≪もうむちゃくちゃですよ。(隊員を)虫けらぐらいにしか思っていない≫。元隊員の田尻正人さん=2018年に96歳で死去=が憤る映像が、NHK戦争証言アーカイブスに残る。 千さんは一度、仲間と弱音を漏らし合ったことがある。訓練後に茶を振る舞うと、一人が「おふくろに会いてぇな」。すると、みなが立ち上がって故郷に向かい「おかあさーん」と涙を流して叫んだ。 「本当は『助けてくれ』やった。この一言が言えなかった」と千さんは明かす。戦闘機もなしに、死ぬための訓練をする。この不条理にどう向き合ったのか。 「そんなこと言うてもね、ちょっとあなた方には分からないですよ」 ■ もっと直截(ちょくせつ)に語る人もいる。特攻隊要員だった岡山県津山市の多胡恭太郎さん(99)は、大学在学中に陸軍の特別操縦見習士官に志願し、艦船に見立てた目標に急降下で突入する訓練を繰り返した。 「世論に押されて軍に入った。特攻隊には指名されないだろう、されないでほしいと望みを持っていた。どうやって逃げちゃろうかとも考えた」 45年1月、日本統治下の台湾へ。航空機も燃料も十分になく、作戦室勤務を命じられた。「助かったと思った。うれしかった」。だが、そこでの業務は特攻の命令書の原案作成。死を強制する側として苦悩したという。 特攻で敵に恐怖を抱かせ、米国世論を厭戦(えんせん)に導く-。戦果が上がらなくなるにつれ、そんな幻想じみた話も伝わってきた。 「日本全体が狂っとった」。多胡さんはつぶやいた。 (久知邦)