2001夏甲子園優勝投手、4度の手術と波乱万丈の野球人生。「失敗への対策の引き出しを持つことが重要」
2001年夏の甲子園優勝投手で、大阪近鉄バファローズに入団。その後、オリックス、ヤクルトと移籍し、2018年シーズンには74試合に登板し最優秀中継ぎのタイトルを獲得した近藤一樹さん。高校時代は日大三高で夏の甲子園全国制覇を成し遂げたエースだったが、2022年、39歳で現役を引退されるまでプロ野球時代はケガに悩まされることが多く、成績だけを見ると大器晩成型とも言える選手だった。 プロとして第一線で活躍されている人でも、うまくいかない時はあるもの。大きな壁に直面したとき、いかにしてそれを突破してきたのか――。 「プロフェッショナルが過去にどのように壁を乗り越えたか」という話を聞けば、自分が壁に直面したときに突破するヒントとなるだろう。富裕層や地主、経営者を中心に、資産防衛・ビジネスコンサルティングを行い、様々な世界で活躍しているプロフェッショナル12人との対談をまとめた著書『プロたちのターニングポイント』を持つ松本隆宏さんが近藤さんの話を聞いた。
ヤクルトスワローズへの移籍とともに訪れた転機
松本隆宏(以下、松本):まずは近藤さんのプロ野球選手時代についてお話を聞かせてください。もともと近藤さんは日大三高の野球部で、2001年夏の甲子園ではエースとして全国制覇。2001年度のドラフト会議で大阪近鉄バファローズから指名を受けて入団されました。 2004年シーズン終了後、オリックス・バファローズへ移籍、2016年に東京ヤクルトスワローズへ移籍。それまでは先発ピッチャーという役割がメインでしたが、ヤクルトスワローズでは中継ぎピッチャーを任されるようになった。 これが転機となり、2018年シーズンは年間143試合のうち、実に74試合に登板し、球団記録を更新する活躍で最優秀中継ぎのタイトルを獲得されました。2019年にも59試合に登板して、ヤクルトスワローズを支える活躍をされ、ファンを沸かせたのが特に印象に残っています。1年に74試合とはとんでもない数ですが、近藤さんはどのような気持ちで出場されていたのですか? 近藤一樹(以下、近藤):登板予定のない日も、ベンチでは「もしかしたら今日も出場することになるかもしれない」と考えて、常に気持ちをキープするようにしていました。自らの気持ちをコントロールする日々でもちろん疲れはありましたが、楽しさと悔しさ、どちらも感じられるポジションを任せてもらえてありがたかったです。 松本:常に気持ちを途切れさせないでいたからこそ、2試合に1回という高い登板頻度をこなせたのですね。 近藤:当時ケガが多かったので、毎日投げられるのかという不安と、でもやってやろうという気持ちで、結果を残すことができてほっとしましたね。 松本:何が結果につながったのですか? 近藤:投球スタイルは変えなかったものの、球種を絞って「全部が勝負球」に変えたことですね。全力で抑えにいくには何がいいかを考え、「一球一球をいかに全力で投げられるか」という基準のもと、「これ」という球種だけを残したのが功を奏したのだと思います。 松本:プロ野球選手として活動した20年ほどの間で、大阪近鉄バファローズ、オリックス・バファローズ、東京ヤクルトスワローズと、3つの球団に所属されましたよね。それぞれの球団では、どのようなことを考えながらプレーされていましたか? 近藤:3球団を渡り歩いてきましたが、チームそれぞれに異なる特徴があり、いろいろな経験ができたと感じています。パ・リーグからセ・リーグに移籍した当時は「パ・リーグは力勝負、セ・リーグは技勝負」という印象を抱いていました。近年は野球のレベルが上がり、セ・リーグもパ・リーグも同じになっていますが、セ・リーグのほうが「野球が細かい」と感じましたね。 実際、コーチからも「細かいコントロールで外の出し入れ、内の出し入れをしなさい」と指導されましたが、自分にそのコントロール力はなかった。パ・リーグでは「真ん中に投げるから打ってみろ」というスタイルだったので、セ・リーグでもそれを押し通したところ、セ・リーグに同じタイプの投手がいなかったから、それがかえってよかったのかもしれませんね。 松本:どうしたら自分は生き残ることができるのか、分析をして、生き抜く術を見つけられた。自己分析力が非常に高いのですね。