沖縄「慰霊の日」、68年後も癒されない傷跡
南の小さな島を弾丸と砲弾の「鉄の暴風」が襲った沖縄戦から68年目の慰霊の日を迎えます。戦後、米軍が住民から土地を奪い、建設した基地群がいまも住宅地の中に存在します。沖縄の受難は続いています。 沖縄戦末期、地形が変わるほどの攻撃にさらされました。日本軍の組織的な戦闘が絶えた6月23日が「終戦の日」とされています。その10日前に自決した海軍の大田實中将は、死ぬ前に東京の大本営に打電しました。「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」。住民の献身的な戦闘協力と戦禍の惨状を伝え、戦争が終わってからは沖縄の犠牲が報われるよう求める内容でした。
沖縄戦のさなか、東京では大相撲夏場所
大田中将が自決した日、東京両国国技館では7日から始まった夏場所の千秋楽が行われていました。戦災の中だけに取組は非公開でした。当時の朝日新聞に千秋楽の結果が小さく報じられています。 沖縄人が死の淵をさまようとき、東京では千秋楽。このめまいのするようなギャップはその後も沖縄を苦しめます。 戦後日本は安全保障を米国に委ねました。本土にも多くの米軍基地がありましたが、反基地、反安保闘争が燃え盛る中、米軍の統治下にあった沖縄に部隊を集中させました。現在沖縄基地の7割を占有する海兵隊も岐阜県と山梨県から1956年に移転してきました。その年は経済企画庁が、もはや戦後の経済ではない、と経済白書に書き、戦後の終わりを宣言。歌謡曲「ここに幸あり」、「ケ・セラ・セラ」がヒットした年です。 日本が高度経済成長へと邁進するとき、沖縄では米軍が銃剣を住民に向け、田畑を奪って基地を拡張しました。住民は言論の自由も許されず、婦女子は辱めを受けても押し黙るしかないような状況が長く続きました。
住民の存在を無視するオスプレイ配備
基地の被害、非人道的な扱いはいまも基本的には変わっていません。 昨年10月、海兵隊は新型輸送機オスプレイを住宅密集地の普天間飛行場に配備しました。沖縄県民は猛烈に反対しました。大規模な県民集会を開き、全市町村長、全市町村議会が反対を表明しました。県民集会の代表者ら140人を越す要請団が今年1月、上京し、官邸で安倍晋三首相にオスプレイ配備の撤回を求めました。 首相は「安全保障を皆さんに担ってもらっていることを胸に刻みながら対応する」と述べながら、オスプレイについては、「安全確保について米側と話をしている」とだけでした。海兵隊はハワイ島にある小さな飛行場でオスプレイの飛行訓練を行う予定でした。しかし滑走路の西1.6キロメートルにカメハメハ大王の生誕地があり、オスプレイの飛行が史跡に悪影響を及ぼすと、住民が反対したため、海兵隊はこの飛行場を使うことを断念しました。普天間飛行場は滑走路から最も近い住宅がわずか600メートル。周辺は学校、病院など住民生活が詰まっています。沖縄の住民は存在すら無視されているかのようです。 沖縄戦の傷跡は癒されることもなく、今年も鎮魂の鐘が米軍基地の島に鳴り響きます。 (屋良朝博/フリーライター、元沖縄タイムス社論説委員)