「マッカーサーと対談」上皇さまは“歴史の証人”、佳子さまらが学ばれる“祖父からの証言”
戦争の継続を求めて大激論
三笠宮さまは戦前、旧陸軍軍人として、大本営参謀などを務めた。1945年5月25日夜、米軍のB29爆撃機による空襲で三笠宮邸は焼失し、家族は防空壕での生活を余儀なくされた。防空壕の入り口前に、宮邸の焼け跡から見つけたトタンで屋根を設け、そこに机と椅子を並べて、食事や宮さまの面会などに利用した。 百合子さまの記憶によると、終戦前日の8月14日、陸軍士官学校の同期生らの青年将校たちが、戦争の継続を求めて三笠宮さまと大激論となったという。政府は、昭和天皇の聖断を仰いで、すでに「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定していた。終戦と和平に向けて大きく舵を切っており、三笠宮さまもこうした政府や兄、昭和天皇の考えを支持していた。このとき、三笠宮さまは29歳、百合子さまは22歳だった。 《8月14日に(宮家の防空壕に)陸軍の若手将校が訪問してきた様子はね、ご同期生とか、いわゆる青年将校、まあ、何人か次々に見えて。その人達とは激論になって。みんなもっと戦争を続けるべきだということだし、若い人達は。宮様はもう終わりにした方が良いっていう方でいらっしゃったし。 激論になって、今にもピストル(の弾が、筆者注)が飛び交うかと思うような緊迫したことで。私は防空壕の中で、宮様はその防空壕の入口の前で相対して、その人達とお会いになってらっしゃいました。私は防空壕の中で、それをうかがってまして、すごい怖い雰囲気であったことを覚えております。それで散々大議論になったんですけど(略)》(百合子さまの口述) 戦争に敗れた日本は、アメリカなど連合国によって占領された。そのトップである、連合国最高司令官だったダグラス・マッカーサー元帥と佳子さまの祖父である上皇さまは、直接、会って、対談しているのだ。しかも、英語で会話をした。1949年6月27日夜、15歳の上皇さまは英語の家庭教師、ヴァイニング夫人に付き添われて、当時の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に元帥を訪れた。ヴァイニング夫人の著書『皇太子の窓』から主なやりとりを紹介しよう。 元帥「あなたのお友達はどこの大学に行きたがっているんですか?東京大学?早稲田?」 殿下「東京と学習院です」(略) 元帥「世界を見るのはいいことです。合衆国や英国をお訪ねになるといい。外国の大学で勉強されるといい。アメリカには、ハーバード、エール、プリンストンが、英国にはオックスフォードとケンブリッジがあります。世界は狭くなりつつあります。(略) 他の国々を見、他の人々を知り、理解し、友人になるというのはいいことです」 殿下「はい、私もそう思います」 元帥のお付きのバンカー大佐から夫人に電話がかかってきた。そして、大佐は、「(略)殿下はものの見事に元帥の試験にパスされたようです。元帥は部屋から出て来るとすぐ、殿下から実に良い印象を受けた、殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった、と言っていましたよ」と、話したという。 このように、昭和天皇の長男である上皇さまは、戦前、戦中、戦後を生きた「優れた歴史の証人」である。このマッカーサー元帥との対談も、その思い出や元帥の印象などについて、ぜひ、私たち国民に話していただけないものだろうか。人生100年時代といわれている。三笠宮さまや百合子さまは100歳を超す長寿だった。 私は、上皇さまに歴史的に価値の高い証言を期待している。そして、佳子さまもまた、祖父の話や証言から多くのことを学ぶだろう。12月23日、上皇さまは91歳の誕生日を迎える。 <文/江森敬治> えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に『秋篠宮』(小学館)、『美智子さまの気品』(主婦と生活社)など