「没収されても取り戻せるように」原子野をフィルムに収めて 破壊された都市 傷ついた人たち…撮り続けた被爆2か月後の広島
■「占領下では、客観的科学的に撮影するしか方法がなかった」 破壊され、廃墟となった都市に臨時の救護所には治療を待つ長蛇の列。頭髪が抜けた人たちや、大やけどの跡…。当時の撮影班はそうした姿を、客観的、科学的に撮影していたといいます。 相原秀二さん(1994年取材) 「万一の場合を考えていた。もしアメリカにフィルムを取られても、取り戻せるようなね映画を作っておけばいい。つまりは、客観点に科学的に撮ってたいたら、何の不都合もないはずと考えていた」 もし、フィルムが没収されても科学的に撮影さえしていれば、取り戻すことができる。占領下の中、原爆の記録を撮るためには、この方法しかなかったといいます。 原爆記録映画は、日本映画社がアメリカ側から制作を委託される形で完成しました。1946年5月、アメリカ本国に送られ、長期間極秘扱いとされました。 なぜ日本にフィルムが残っていたのか詳しい経緯は分かっていません。ただ、原爆記録映画に盛り込まれていないシーンも数多くあり、より被爆の惨状に迫るものといえます。 被爆から79年経っても、世界にはまだ1万発を超える核兵器が存在します。ロシアは核兵器の使用を盾もウクライナへの侵攻を続けます。 アメリカも、核兵器の性能の維持・強化のため、核爆発を伴わない臨界前核実験を繰り返しています。 混沌とする世界に「広島の記録」が警鐘をならしています。 RCCでは、被爆2か月後に撮影された広島の映像や写真などを、広島市や中国新聞などの報道機関とともに、被爆80年となる2025年にユネスコの「世界の記憶」に登録されるように取り組みを行っています。そして、核兵器の使用が危ぶまれるいまだからこそ、改めてこの原爆記録映像を見つめ直し、原爆の惨状を伝えていきます。
中国放送