日本陸海軍ともに連戦連勝!向かうところ敵なしといった活躍に日本国民は熱狂!!
昭和17年(1942)、「写真週報」は毎号日本軍の連戦連勝を伝えていた。その4月1日号の表紙はビルマ(現在のミャンマー)の首都ラングーンに入城する皇軍(当時の日本軍呼称)を写したもの。表紙の解説には「今、皇軍は堂々ラングーンに入城する。遺骨を胸に、灼熱の太陽に映える日の丸の鮮やかさが目にしみこむやうだ(原文ママ)」とある。 日本軍は開戦前、ビルマ方面への侵攻には積極的でなかった。直前になっても、具体的な作戦や兵力が固まっていなかったほど。それでも開戦と同時に、第33師団と第55師団を基幹として編成された第15軍(司令官・飯田祥二郎/いいだしょうじろう/中将)が進撃を開始している。 だが開戦兵力にも限りがあったので、当初のビルマ作戦は、侵攻する地域にしても南部ビルマに限定したものか、ビルマ全土を目的とするのかも定まっていなかった。基本的には連合軍の反攻に備えることを目的とした、消極的なものであった。それでも3月8日には、首都ラングーンを占領したのである。 さらに2月15日、開戦前の予測よりも順調にシンガポールを陥落させることができた日本軍は、第18師団と第56師団をラングーンに派遣。余勢を駆って、ビルマ全域を攻略する方針となったのである。この方面は、中国の蒋介石(しょうかいせき)政府への軍需物資輸送ルート、いわゆる援蒋ルートの重要な拠点となっていた。これを遮断することは、大きな意味を持つ。 写真週報が発行された時期は、首都ラングーンが陥落した直後であり、速報として伝えている。巨大な釈迦の涅槃像(ねはんぞう)を見上げる日本兵の印象的な写真が、トップページを飾っていて、見出しは「開戦三ヶ月不敗の態勢成る」とある。その後、5月末までにビルマ全域は日本軍により制圧されている。ビルマ関連の記事の次はインドネシアのオランダ軍が、日本軍に全面降伏したものであった。まさしく開戦3ヶ月で、日本軍はアジアの大半を手中に収めたのである。 陸軍以上に華々しく勝利が伝えられていたのが海軍である。南雲忠一(なぐもちゅういち)中将率いる空母機動部隊は真珠湾攻撃の後、ウェーキ島、ラバウル、ポートダーウィン、ジャワ島などの陸上基地攻撃に駆り出されていた。1942年4月初旬になり、イギリス東洋艦隊撃滅を目指し、満を持してインド洋に転戦した。 4月5日早朝、南雲艦隊はイギリス海軍の根拠地であったコロンボ空襲のため、艦載機129機を発艦させる。だがイギリスの主力艦は軍港から退避していたので、戦果ははかばかしくなかった。ところがその直後に、日本側索敵機が重巡ドーセットシャーとコーンウォールを発見。南雲司令官は危険な兵装転換を行い重巡攻撃に向かわせたのだ。この時はわずか17分の攻撃で2隻を撃沈したからよかったが、相手が空母であったら逆襲を喰らっていたかも知れない。 さらに9日になると、日本軍はトリンコマリー港北東海上でイギリスの小型空母ハーミスを発見。5隻の空母(赤城/あかぎ、飛龍/ひりゅう、蒼龍/そうりゅう、翔鶴/しょうかく、瑞鶴/ずいかく)から艦爆85機、零戦6機を発艦させ、オーストラリア海軍の駆逐艦バンパイアとともにわずか15分で沈めてしまった。このセイロン沖開戦は、5月6日号で空母ハーミスが沈没する様子とともに、見開きを使って紹介している。 そして5月20日号では、珊瑚海海戦(さんごかいかいせん)の詳報が絵画と地図を使い見開きで紹介されていて、次にはそれまでに撃沈・撃破した連合軍の艦船や航空機が、これも見開きで掲載されている。これを見た読者は、帝国海軍はまさに向かうところ敵なし、と思ったに違いない。だが実際の珊瑚海海戦は、日本軍と連合軍の両者痛み分けであった。 インド洋での戦いの後、南雲機動艦隊は一度内地に引き返す。途中で空母翔鶴と瑞鶴を基幹とした第5航空戦隊は、ニューギニア島東海岸のポートモレスビーを攻略するMO作戦に参加するため、5月1日にトラック諸島を出航、珊瑚海へと向かった。モレスビーに上陸する兵員を運ぶ輸送船団には、小型空母祥鳳(しょうほう)が護衛としてつくこととなった。 この間、日本側の暗号を解読していた米太平洋艦隊は、5月7日に空母ヨークタウンとレキシントンの艦載機で祥鳳を攻撃、これを撃沈する。翌8日早朝、今度は日本の索敵機が米空母部隊を発見する。翔鶴と瑞鶴からただちに攻撃機69機が発艦した。2時間半後、攻撃機は米空母上空に殺到し、レキシントンを撃沈、ヨークタウンも航行不能にした。 一方、米空母艦載機も日本の空母部隊を発見、攻撃をかけた。だが翔鶴の飛行甲板に爆弾が命中し、飛行機の収容ができなくなったが航行に支障はなく、瑞鶴は無傷だった。こうして史上初の空母対決である珊瑚海開戦は、ほぼ両者痛み分けで終わる。だがMO作戦は中止に追い込まれ、続くミッドウェー作戦に影を落とすこととなった。
野田 伊豆守