「人数差は20倍に開いている」今年で10年目を迎える山口組分裂抗争…衝撃の「最新勢力事情」
国内最大の暴力団・六代目山口組が分裂し、離脱した神戸山口組との対立抗争は今年で10年目を迎える。’15年8月の分裂時には神戸山口組に勢いがあったが、近年は六代目山口組が攻勢を強め、神戸山口組は組織の縮小が止まらないのが実態で、‘24年もこうした傾向は続くとみられる。 【衝撃写真】すごい…! 若頭たちを引き連れて歩く六代目山口組・司忍組長「純白スーツ」で放つ威圧感 警察庁が公表しているデータによると、‘15年の分裂時には6代目山口組の構成員は約6000人で、神戸山口組は約2800人となっていた。「分裂の原因は何もかもカネだ」(組織犯罪対策を担当している警察幹部)とされていたことから、当初はカネのかからない組織運営を標榜していた神戸山口組に加入する組織が相次いだ。 しかし、神戸山口組内でも再び同じ問題が持ち上がる。組長の井上邦雄の組織運営、なかでもイレギュラーな集金を批判して、一部グループが‘17年4月に離脱。任侠団体山口組(現・絆会)を結成したことが組織縮小の始まりだった。さらに対立抗争が続くなか、六代目山口組が引き起こす事件が多発し、神戸山口組から離脱する傘下組織が相次いだ。 特に神戸山口組傘下だった有力組織、池田組では最高幹部が銃撃される事件が続いた。‘16年5月、組織のナンバー2の若頭・高木昇が射殺された。さらに’20年5月には高木の後任の若頭・前谷祐一郎も銃撃され、重傷を負った。事件を引き起こしたのはいずれも六代目山口組系の組員だった。このほか、神戸山口組・井上組長の出身母体である中心組織、山健組の最高幹部が刃物で襲われる事件も発生していた。前出の警察幹部が言う。 「カネの問題もあったが、暴力団の抗争は事件が起こされれば、返し(報復)が続くものだが、神戸(山口組の組長)の井上が許さなかったことで不満がたまったようだ。傘下組織に返しをさせなかった理由はいまでも不明だ」 対立抗争をウオッチしていた指定暴力団幹部も、「抗争で返しがなければ、ヤクザの業界では疑問視されるし、関心を持っているカタギ(一般市民)にも説明がつかない」と指摘する。 神戸山口組は、山健組、宅見組、侠友会、池田組、正木組の5組織を中核にした13組織で結成された。しかし、池田組は‘20年7月に脱退し、山健組も同年8月に大多数が離脱を表明。正木組は同月、解散を表明した。岡山県公安委員会は池田組を独立した組織として認定し暴力団対策法に基づいて指定暴力団に指定、山健組は六代目山口組に復帰することとなった。こうした動きを反映した’21年の神戸山口組の構成員は、約510人にまで減少していた。 神戸山口組の組織の縮小はさらに続いた。侠友会会長の寺岡修は神戸山口組を解散させることで事態の収拾に動いていたが、井上が拒否。寺岡は‘22年8月、離脱を表明しただけでなく同年12月、六代目山口組ナンバー2の高山清司若頭に謝罪したうえで自らの引退と侠友会の解散を表明した。侠友会同様に中核組織だった宅見組組長の入江禎も同年9月、脱退を明らかにした。 神戸山口組が四分五裂の状態もあり、警察庁の最新データによると、‘22年の6代目山口組の構成員は約3800人に対して、神戸山口組は約330人となり10分の1以下の大きな差が開いているのが実態となっている。 だが、’22年時点での神戸山口組の構成員は「200人前後となっているのが実態だ」と別の警察幹部が明かす。 「侠友会と宅見組が神戸山口組を離脱したと表明したが、‘22年時点では警察としては認めていない。抜け出しましたと言っても偽装かもしれない。離脱を認めると暴力団対策法上の規制の対象外となってしまう。抗争となれば事務所の使用制限などができなくなる」 警察当局は‘23年になって宅見組の離脱と侠友会の解散を認定した。この時点での宅見組の構成員は約90人、侠友会は約30人が確認されていた。この人数を差し引くと、前述の警察当局の幹部が明かしたように「200人前後」となることになる。 一方の六代目山口組系幹部は、「200人もいないはずだ。100人前後ではないか」と見方を示す。 警察庁は毎年、年末時点での各暴力団の構成員数を正式にカウントし、翌年の春ごろに発表している。‘23年末時点での構成員数の最新データが、’24年春に警察庁によって公表される際には、対立抗争状態となり10年目となる6代目山口組と神戸山口組の構成員数はさらに格差が開いているものとみられる。(文中、一部敬称略) 取材・文:尾島正洋 ノンフィクション作家。産経新聞社で警察庁記者クラブ、警視庁キャップ、神奈川県警キャップ、司法記者クラブ、国税庁記者クラブなどを担当しフリーに。近著に『俺たちはどう生きるか 現代ヤクザのカネ、女、辞め時』(講談社+α新書)。
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