日本の「武器輸出」は国際社会の信頼を失うのか?
「武器輸出」に関する話題になると、日本では感情的な議論が展開されがちです。例えば、2014年4月、一定の条件下において“武器”を輸出できるようにした原則が閣議決定されると、「戦後築いてきた“平和国家”が変質し、国際社会の信頼をも失いかねない」という主旨の報道まで現れました。 そこで、この記事では、戦後の日本が武器輸出とどのような関わりを持ってきたのかを明らかにします。日本は戦後、東南アジア諸国などに武器を輸出し、“自衛隊”の発足時には米国から様々な武器の提供を受け、その後も諸外国の武器輸出の枠組みを活用して海外から武器を導入してきました。なお、ここでは「武器」の意味を幅広く捉え、関連技術や構成部品なども含めます。また、他国に武器を供給する行為を、「武器輸出」とします。
東南アジア諸国に武器輸出をしていた日本
戦後の日本は、特に1950年代から60年代にかけて、東南アジア諸国などに武器を輸出していました。その中には、本来戦闘に使用するものもあれば、訓練に使用するものもありました。例えば、朝雲新聞社が整理した資料によれば、1953年、日本はタイに対して、大砲の弾を合計5万発輸出しました。 また、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の資料によれば、1954年、日本はカンボジアに対して、地上の目標を攻撃するための飛行機などを合計7機輸出しています。更に、1958年から1959年にかけて、日本はフィリピンに対して、パイロットの養成に使用する練習機を36機輸出しています(図1参照)。 この他、経済産業研究所(RIETI)の資料によれば、1967年、日本政府は国内企業がフィリピンに銃弾製造設備を輸出することを承認しています。これらの事例からは、いわゆる「平和憲法」の下でも、日本が武器輸出をしていた事実を確認できます。
米国から武器を提供されて成立した“自衛隊”
日本は、“自衛隊”の発足に当たり、様々な武器を米国から提供されました。特に陸上自衛隊の前身である「保安隊」や海上自衛隊の前身である「警備隊」、そして、少し遅れて発足した航空自衛隊は、米国から武器を提供されることで体制を整えました。例えば、旧防衛庁が作成した『自衛隊十年史』によれば、1953年、米国から保安隊に対して、拳銃や機関銃、大砲や戦車などが供与されました。 同じ年、米国から警備隊に対して、小型の護衛艦18隻を含む合計68隻もの船が貸与されています。航空自衛隊に対しては、1955年から1957年にかけて180機の戦闘機が米国から供与されました(図2参照)。もっとも、敗戦によって軍隊が解体され、武器も放棄した日本にとって、国を守る組織を再び立ち上げるに当たり、他国から武器の提供を受けることは、当然のことかも知れません。しかし、日本が米国の「武器輸出」の枠組みを通じて、防衛力の基盤を整えた一面があることは事実です。