気づくと筋骨隆々の男が...呂布カルマがかたくなに宿題をやらなかった理由
ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では『宿題』について語った。 * * * ★今週のひと言「ウソをつき続けてまで宿題をやらなかった理由」 このコラム連載も、もう何回目になっただろうか。 もともと漫画家になりたかった俺だが、たった1500文字、週に1度やって来る締め切りに苛(さいな)まれながらも、絞り出すようになんとか食らいついているというザマだ。 週刊連載の漫画家なんてどだい無理な話だったと今ならわかる。いや、当時からわかっていたはずだ。 俺は幼い頃から今に至るまで、宿題や提出物なんてものをまともにやってこなかったのだから。 特に宿題というやつは厄介だ。子供の頃から大の宿題嫌いで、というか勉強嫌い、というか漫画家になるのに勉強をする意味はないよな、からの当然宿題もやる意味ないよな、というロジックで宿題はやらなかったし、やれなかった。 かといって「宿題なんてやらない」と堂々と宣言できるほど当時の俺はまだふてぶてしくはなかったし、たとえ宣言しても許されるはずもなかった。 親には「宿題は今日はない」とか、「もう学校でやった」とかウソをついてやらず、学校の先生には「やったけど家に忘れてきた」だの、「知らなかった」だの、「通学途中に落としてなくした」だので通した。当然そんな子供のウソは通らないんだけど。毎日だし。 そしてその代償として、それこそ今では許されないような最もプリミティブで、最もフィジカルな教育的指導を日々、家庭と学校の両方で浴び続けた。宿題を提出するまでひとり居残りをさせられ、結局できないまま暗くなって帰らされるなんてことも日常だった。 別に進学校や私立校でもなく、ごく一般的な大阪の公立小学校に通っていた俺の宿題の量なんか、たかが知れていた。 おそらくプリント1枚と、ドリルを1ページとかその程度だったはずだ。やりゃいいじゃん! と今なら思うが、当時はできなかった。それにより肉体的な罰を受け、その罰を回避するために子供の浅知恵を振り絞り、ウソをつき続けた。 そうして小学校を卒業し、名古屋へ引っ越して中学生になったら、各教科ごとに出る宿題の量は格段に増えていった。と同時に苦しみは増すばかりだった。 さらに夏休みなどの長期の休みに出される尋常じゃない量の宿題は、特に俺を苦しめた。親の前でやっているフリをするのも大変だし、「宿題を持ってくるのを忘れた」が通用するのもせいぜい新学期が始まって1週間だ。 夏休みの宿題をツケたまま冬休みに入り、夏冬の宿題をツケたまま学年が上がる。 そうすれば逃げ切り、こちらの勝ちだ。 なぜ俺がそこまでかたくなに宿題をやれなかったかというと、それは言わずもがな、漫画のせいだ。 俺はノートやプリントといった紙の前にペンを持って座ると、自分の意思にかかわらず絵を描いてしまう呪いにかかっていた。 頭では宿題やテスト勉強をするつもりでも、ハッと気づくと筋骨隆々の男の絵を描き殴っているのだ。 結局そうやって獲得した画力を生かし、無事に芸大へ進んだのだから、俺の選択に間違いはなかったのだが、その呪いによって苦労したのも確かだ。 そしてやっと大人になり、宿題から解放されたのもつかの間、今は小学生の娘に「宿題やったのか?」と、どの口で言ってんだ状態だ。 果たして俺は、いつまでたっても宿題に悩まされているのである。 撮影/田中智久