健大高崎率いた青柳博文監督 センバツ初優勝まで、23年の軌跡
第96回選抜高校野球大会は31日、健大高崎(群馬)が報徳学園(兵庫)を3―2で破り、春夏通じて初優勝を果たした。青柳博文監督(51)が健大高崎を率いて20年以上。どのような軌跡を描いてきたのか。 【激闘の決勝戦を写真で】健大高崎-報徳学園 2001年、群馬県内の建設会社で事務職をしていた青柳監督の元に、母校の前橋商(群馬)の恩師から連絡があった。「群馬女子短大付属高校が共学になった。そこで野球の指導をしてみないか」 青柳監督は高校時代にセンバツに出場し、東北福祉大を経て、群馬の軟式野球の企業チームで数年間プレーした。不況のあおりで廃部になり、建設会社に転職したが、「いつかは高校野球の監督をやりたい」と夢を描いていた。教員免許は取得済みで、会社勤めの傍ら、遠征や合宿などで使うバスの運転免許を取得するなど準備もしていた。 健大高崎に改称し、共学化から1年が経過した02年、会社員生活をやめた青柳監督は社会科教員として赴任した。「10年で甲子園出場」と意気込んだが、想像と180度違う現実が待っていた。 「野球以外の問題が多すぎて、正直、練習どころじゃなかった。授業態度は悪い、生活も服装も乱れている。きちんと野球部として活動するまでに5年くらいかかった。そんなに甘くないですよね」 同好会から部に昇格しても、練習環境は変わらず、青柳監督が外部の球場を借りて練習する日が続いた。 苦労と裏腹に選手はどんどん減った。「就任後、『甲子園へ行こう』と熱いあいさつをしたら5人くらいやめて、『丸刈りにしよう』と提案したら3人くらいやめた」 女子のみに適用された「アスリートコース」の枠を広げ、野球部やサッカー部に入りたい男子も受け入れるよう、学校に掛け合った。さらに、サラリーマン時代の経験も生かした。各持ち場をコーチに一任する「分業制」を始めた。すると、06年秋に群馬大会で準優勝。翌年、念願の専用グラウンドが整備された。 選手の技量のなさを補うため、打球が飛ばない軟式時代の戦略をヒントに始めたのが、攻撃で足を使う看板の「機動破壊」だった。 教員生活も気づけば20年以上が経過した。授業は主にアスリートコースの生徒を受け持つ。授業で理解が進まなかった部分があれば補足するなど、グラウンドと同様に生徒と丁寧に向き合う。野球部OBの舩橋大雅さん(18)は「板書のスピードが速くて分量が多い。雰囲気は違うけど、(スピード感があるので)授業も『機動破壊』ですよ」と笑う。 苦労しながら必死に駆け抜け、ようやくたどり着いた頂点だった。【磯貝映奈】