鈴木伸之「巨人の選手にサインをもらいに行くのが日課だった」野球少年時代の思い出とサポートしてくれた両親への感謝
鈴木伸之さんが、野球少年だった当時のことや両親への思いを語りました。 子どもの頃はプロ野球を目指すほどの野球少年だった鈴木伸之さん。ケガで夢をあきらめた後、「歌を歌いたい」と所属事務所・LDHの大規模なボーカルオーディションに参加。そこで落選したものの、縁がつながり劇団EXILEの一員として俳優人生をスタートさせました。 【写真12枚】中日ドラゴンズのユニフォームに身を包み少年時代について語る鈴木伸之の写真を見る 劇団EXILEの舞台公演で俳優デビュー後、ドラマ『GTO』(カンテレ・フジテレビ系)、『ルーズヴェルト・ゲーム』(TBS)、『あなたのことはそれほど』(TBS)、『ケイ×ヤク―あぶない相棒-』(日本テレビ)、『東京リベンジャーズ』シリーズなど話題作に出演。硬軟さまざまな役を演じ存在感を見せています。 現在、土ドラ『バントマン』に出演している鈴木さんにインタビュー。野球少年だった当時のこと、野球好きの父、ずっと支えてくれたという母への思いを聞きました。
少年野球では全国4位に「クジ引きで勝ち進んで。運も実力のうち(笑)」
──鈴木さんは、野球少年だったそうですね。 野球は小学校1年生から始めました。兄が2人いるのですが、その兄にならって同じ地元のクラブチームに入ったのがきっかけです。 僕は、バッティングが得意だったので打順は4番、5番、ちょくちょくホームランを打っていました。守備は、ピッチャーとショートでした。 ──強いチームだったのですか? 小学生の時に、全国で4位まで行ったことがありました。でも、僕が出た小学生の大会は少し変わっていて、延長戦がなく、7回まで同点だとクジ引きになるんです。 クジ引きは、レギュラーメンバーの9人が審判の前に立って、交互に引いていきます。そこには、〇か×が書いてあって、〇を多く引いた方が勝ち。審判は、勝ったチームに向かって勝利を告げるのですが、負けたチームにしたら「なんでこんな〇×で決められないといけないんだ」って思いますよね。 うちのチームもベスト32くらいの時からずっとクジ引きで勝ち進んで、それでベスト4まで行ったという…怪しいですけど、運も実力のうちということで(笑)。 ──その後、中学生になってからは野球部に入ったのですか? リトルリーグに入りました。毎日河川敷で練習していましたが、2年生の時にヒジを壊してしまって。医師から、今は投げないほうがいいと言われてギプスを3ヵ月くらいつけていました。 でも、ギプスが取れても痛みが取れず、結局これ以上続けるのは無理だという判断になってしまって。悔しかったですね。 ──当時、憧れだった選手は? 実家の近くに読売ジャイアンツの2軍の球場があったので、学校が終わって、サインをもらいに行くのが日課でした。 長嶋茂雄さんが監督で、仁志敏久選手や清原和博選手、上原浩治選手、高橋由伸選手など、あの世代の巨人がすごく好きで憧れでした。 ただ、サインは争奪戦で。選手はケガなどで2軍にきているから…なかなか書いてくれなかったんですけど、僕も子どもだったから引きませんでしたよ(笑)。 ──少年野球は、家族の協力も必要だったと思いますが、当時のことで印象的なことはありますか? 父も野球をやっていたようで、野球のことになると熱が入っていました。 2人の兄は、高校1年生から3年生まで寮生活をして、大学でも野球を続けていて、まさに野球家族だったのですが、僕が野球をやっていた時は、日曜日に試合があると父が見に来てくれて、帰ったら反省会。「ここがダメだった」や「もうちょっと投げ方をこうしたほうがいい」など、よく怒られていました。厳しかったです。 母には…砂だらけの靴下で廊下を歩いて、めちゃめちゃ怒られました(笑)。家に帰ったら、すぐお風呂場に行けと言われたり。でも、いつも泥だらけのユニフォームを洗ってくれました。 野球のユニフォームは、ほかの洗濯物と分けて洗わなければならないし、なかなか汚れが落ちないんです。洗濯機から砂利の音が聞こえたのを覚えています。それくらい大変だったと思うので、感謝しています。 取材・文:出口恭子 撮影:島田香 スタイリスト:くしかわとも ヘアメイク:高橋亮 小道具:IZU
めざましmedia編集部