なぜ私たちは「誰も見ない書類作成」「文書の体裁をいい感じにする仕事」に忙殺されるのか
「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは? 【写真】日本人が知らない、「1日4時間労働」がいまだ実現しない理由
書類穴埋め人
書類穴埋め人の原文は、box tickers。これは、box tickingに由来しています。「書類穴埋め人」とはまた、もっさりした訳語ですが、書類のチェック欄にレ点を入れる、つまりチェックするということですね。おそらく、そこから転じて、「官僚主義的手続き」「お役所仕事」という意味を帯びています。定義は「ある組織が実際にはやっていないことをやっていると主張できるようにすることが、主要ないし唯一の存在理由であるような被雇用者」です。 これはたぶん、BSJの作業としては、わたしたちのほとんどがかかわっている問題ですよね。たとえば、確定申告をやったことのある方なら、あの「書類作成」に、そしてオンラインで簡素化されたといわれる、あの「書類作成」のハードルにふるえあがる気持ちもわかるのではないでしょうか。 およそ、コンピューターによる「簡素化」とされるもので、本当に簡素化された事例をみなさんはどれほどあげることができるでしょうか。ごくごくまれに本当に簡素化された事例に遭遇すると、わたしなどは感動にうちふるえたりします。 それでは、「ある組織が実際にはやっていないことをやっていると主張できるようにすることが、主要ないし唯一の存在理由であるような被雇用者」とはどのようなものなのでしょう。これはいまでは、日本でもたちまちイメージできる事象があります。つまり、あの「やってるふり」です。 ここでもひとつ、『ブルシット・ジョブ』のなかでもひときわ印象的な証言があげられます。ケアホームにおける余暇活動のコーディネートの仕事をしているベッツィーのものです。 わたしの仕事のほとんどは、利用者の方に面会して、みなさんの希望をリスト化したレクリエーション書類を作成することでした。その書類はコンピューターに情報が記録されると、即座に永久に忘れ去られました。なんらかの理由があって、その書類は紙の形式としても保存され、バインダーに綴じられました。上司の目には、その書類の仕上げは、わたしの仕事のうちでなによりも重要な職務であるらしく、作業が遅れようものなら大目玉をくらいました。短期利用者のための書類を長い時間をかけて仕上げても、その方々は翌日には退去してしまいます。わたしは膨大な書類を破棄しました。面会はたいてい利用者には嫌がられるだけでした。かれらは、面会がブルシットなペーパーワークの一環でしかなく、じぶんたちの個人的希望などだれも気にかけてないことを知っていたのです(『ブルシット・ジョブ』73ページ) インタビューを受けたとしても希望がかなうわけではないということは、利用者当人たちもよく知っているのです。だから、みなそのアンケートに応じるのをいやがっています。実際、その書類は作成されるとすぐに放置され忘れられてしまうのです。 データがコンピューターに記録されながら、同時に紙の形式でも残すことが重視されているというのは、やはり見栄えということでしょうか。要するに、なによりも利用者の希望を聞いたふりをすること、それに応じて改善をしているふりをすること、そしてそれをしているふりのための見栄えが重要なようです。 ベッツィーの例を痛ましいものに、かつBSJ論全体にとっても意義深いものにしているのは、なんとしてもじぶんの仕事を実質のあるものにしようとする彼女の努力です。「幸運にも、毎日の夕食前に、わたしは利用者のためにピアノを弾くことができました。歌ったり、笑ったり、泣いたり、それはすばらしい時間だったのです」。 ところが、ベッツィーには、「こうした瞬間は、書類の記入や適切な処理という彼女の主たる義務の遂行への報償としてゆるされるつかのまのぜいたく」として感じられていたのです。つまり、本来、彼女の仕事の意味は、ケアホームの利用者のレジャー活動を充実したものにすることにあるはずです。とすれば、当然、その本来の仕事は夕食前のこのピアノによる合唱の時間にあるはずです。 ところが、それを彼女はなにか「ぜいたく」であり「うしろめたいもの」と感じ取っているのです。これはおそらく、大学に職のある研究者でもおなじです。研究に時間を割いたり、学問について、あるいは人生について学生と長い時間話し込んだりすることには、なんとなくうしろめたい感覚がまとわりつきます(少し前にはそんなことはありませんでした)。こんなことをしていていいのだろうか、と。それは書類作成のような仕事に主要な時間を割いたついでにくるごほうびであるような感覚が、わたしたちにも拡がっているのです。