旧藩校に「聖書義塾」開く ソーントン宣教師 ピーナッツ・バターを製造販売/兵庫・丹波市
3つの特色 日本自立聖書義塾が開校した時の塾生は3人だった。その後、各地から続々と入塾し、塾生たちの労力によって寄宿舎を建てるほどになった。聖書義塾には3つの特色があった。研究、労働、伝道の3つである。 ソーントンは、日本の一般神学生は聖書を十分に理解していないと考え、聖書を学ばせる必要性を感じていた。このため、朝食をすませると、それぞれに自習をさせたのち、2、3時間にわたって聖書について講義した。『丹波に輝くソーントン』の中で藤田は、「ソーントンの講義だけは感動につぐ感動であった。聖書というものはこうして読むのであるかということを学んだ」と書いている。 午前中の研究を終えると、午後は2つ目の特色である労働にいそしんだ。「労働する苦しみを知らずして、どうして良い伝道者になれるだろう」というソーントンの考えに基づき、夕方までみっちり働いた。仕事は、ピーナッツ・バターの製造販売で、日本中から来る注文に応じた。 『ものと人間の文化史154落花生』(前田和美著)によると、アメリカでは、生産される落花生の半分以上がピーナッツ・バターの原料として消費されているというほど愛好されている食品だが、もともとはベジタリアン食品として1800年代の終わり頃に誕生した。それから30年ほど後に海を越えて日本に持ち込まれ、山間の地の丹波で作られた。 東京に日本で最初にピーナッツ・バターを製造した会社「ソントン食品工業」があるが、この社名はソーントンから採ったものだ。京都府宮津市生まれでキリスト教徒だった石川郁二郎が、ピーナッツ・バターの製造販売を通して日本の農民の貧しい栄養状態を改善したいというソーントンの志に感銘し、事業を受け継いだのが同社の起こりだった。 午後の労働を終えると、3つ目の特色である夜の伝道が待っていた。塾生たちはそれぞれ自転車に乗って近くの町や村に出かけ、伝道に務めた。どんなに疲れていても、任命を受けた以上、果たさなければならなかった。戻ってくる時は多くが夜半だった。このほか、夏季伝道もあった。荷車を引きながら、国鉄福知山線沿線や播但線沿線の町や村を訪ね、伝道した。もちろんソーントンの指導に基づいての伝道だった。 内村鑑三が称賛 『代表的日本人』『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』などの著作がある内村鑑三は、ソーントンを高く評価した。たとえば、大正10年11月8日の日記に、ソーントンについて「普通の宣教師とはまったく異なった宣教師である。氏のような宣教師ならば、何人来てもらってもいい。まことに聖霊の人であり、力のある福音の証明者である」と書き、2日後の10日の日記には「一昨日、聞いたソーントン教師の説教が心の底に響いていた」と書いている。 内村によれば、当時のアメリカ人の宣教師は、「商売根性」で「教会員製造に従事」していた。そんな中でソーントンは異色の宣教師だった。 それほどの宣教師だったソーントンは、丹波で伝道していた大正13年にもイギリスに特別講師に招かれるなど多忙を極めた。そして昭和元年(1926)、アメリカに帰ることになった。聖書義塾は、御影聖書学校に移管され、塾生は全員、神戸市の御影に移ったが、聖書義塾は、今の日本イエス・キリスト教団「丹波柏原教会」の礎となった。 丹波にいること6年だったが、残した足跡は大きかった。昭和33年に亡くなった。