『ワイドナショー』出演で批判殺到の31歳人気俳優、“政治的発言”を巡るバッシングに違和感の理由
泉谷しげるの発言「国民が変わっていけばいいだけ」は…
「政治家が変えられないってことはみんなわかってるわけでしょ。選んどいて自分たちが変わっていくのさ。国民が変わっていけばいいだけの話じゃん」と諭すように語る泉谷は、いい感じのことを言ってる気もするが、ちょっと乱暴な言い方かなとも感じる。 国民が変わるというより、国民が選ぶ政治家が変わると言った方がより正確である。石破内閣では何より内閣支持率が重要で、国民を味方につけなければならないのに、早期解散によって衆議院選挙の投開票が10月27日に行われる。国民の「判断材料」は? 東野が言うように単に「嘘ばっかり」内閣なのか。当初の石破総理に対する民意が問われるわけだから「選挙行動」は必須。 選挙が近いのに政治に対する無関心が広まってしまっては困る。でもMCの口から最初に発せられたこの無関心という言葉ばかりが強調されるのは、なんだかあまりにも野暮ったい。
ワイドショーと政治的無関心
コメンテーターとしての笠松は単なる無関心な人でしかないのだろうか? ワイドショーと政治的無関心。ここでつい思い出してしまうのは、音楽の使用法や駄弁的語り口など、映像すべてが悪態をついているようにしか見えなかった映画『ジョーカー』(2019年)での台詞である。 同作のクライマックス、主人公アーサー(ホアキン・フェニックス)が憧れの人気テレビショーに出演して「僕は政治には無関心」と発言する。司会者マレー(ロバート・デ・ニーロ)を射殺したあげく、暴徒化した民衆からカリスマ的支持を受ける。政治的無関心者による社会的行動が、世界の不都合な真実を明かしてしまった。 笠松にとってのワイドショーも不都合なものでしかなかった。つまり、キャスティング云々含めて、わざわざ出演する必要があったのかということ。政治の話題にコメントをするとわかっていて、ワイドショーの場に出演していること自体がれっきとした政治的なひとつの態度表明でもある。 はっきり政治の話をしなくたって、常日頃から社会に参画するぼくらはどうしたって無意識のうちに政治的存在である。政治的無関心を「今の若者は!」的な論調でいちいち批判することがそもそも野暮なのだ。