「リアリティがすごすぎて、簡単にはおすすめできない」放送作家・鈴木おさむが『ミッシング』に見る“テレビの魔力”
『ヒメアノ~ル』(16)、『空白』(21)などの吉田恵輔監督が石原さとみを主演に迎え、失踪した娘を捜す母親が焦りや怒り、夫婦間の溝、インターネット上での誹謗中傷などにより心を失くしながらも、光を見つけていく様子を描いた『ミッシング』(公開中)。石原にとって出産後初の主演映画は、7年前に吉田監督に直談判をして役を射止めた意欲作だ。石原が演じるのは、ある日突然失踪した幼い娘・美羽を捜し続ける母親の沙織里。被害者であるにもかかわらず、マスコミの報道により世間の注目を浴び、いわれのない誹謗中傷や好奇の目に晒されていく。 【写真を見る】テレビを“作る側”の鈴木おさむが語る『ミッシング』の痛々しいまでのリアリティとは 娘の失踪事件をきっかけに、夫との喧嘩は絶えない。わらにもすがる思いでビラを配り、取材を受けて世の中に事件を発信し続けるも、届くのは信憑性のない情報やSNSでの誹謗中傷ばかり…。それでも彼女を貫くのは「娘に会いたい」という一心だ。沙織里の夫、豊役には青木崇高、沙織里の取材を続ける地元テレビ局の記者、砂田役を中村倫也が演じている。娘が姿を消した日は、沙織里がたまたまアイドルのコンサートに行っていたと知ったネット民はその行動だけを切り取り“母親失格!”とSNSで誹謗中傷を繰り返し、視聴率を稼ぎたいテレビやマスメディアは事件をスキャンダラスに煽る。本作で描かれる沙織里を苦しめる社会の闇、構成や編集一つで視聴者を誘導できてしまう“テレビの魔力”を、長きにわたり放送作家として活躍してきた鈴木おさむはどのように観たのか。父として、夫として、放送作家として、様々な視点から感じたことを語ってもらった。 ■「役者生命をかけて挑んだ石原さんの演技と、それを引き出した吉田監督はやっぱりすごい」 小学3年生の子どもを持つ父親としての目線がまず第一にあったという鈴木。「観ていて、ただただ苦しいし、痛いし、つらい。絶対に起きてほしくないことだけど、大切なものを失うことは誰にも起こり得ること。自分に子どもがいなかったら、もうちょっと客観的に観られたかもしれないけど…。誰かの声やスーパーの扇風機の音ですら子どもの声に聞こえてしまう、みたいなリアリティがすごく痛々しい。状況がどんどんおかしくなっていくことに対して、おかしいと言えない状況は本当に胸が苦しくなるし、張り裂けそうになる。ストーリーラインにリアリティがあったからこそ、より自分に置き換えて観入ったのだと思います」と映画から感じた痛みに触れる。「起きてはいけない人生最大の悲劇だけど、離婚したり家族が離散したりすることもあり得るなかで、どうやって自分自身で光を見出していくのか。0.1歩、もしかしたら0.01歩かもしれないけれど、前に踏みだそうとする話。すばらしい映画だと思いました」と、かなりの見応えがあったようだ。 石原さとみの熱演には鈴木も大絶賛。「役者には演技が変わる瞬間があるというのをよく聞きますが、石原さんにとってはそれが本作だったように感じました。吉田監督に出演を直談判しただけのことはあるなと。テレビドラマで多く主演をやってきたような人にとっては、それが大きなコンプレックスになっていることもある。そんななかで、この役をよくやったなと思います。僕自身、舞台を演出する時には、役者が言いたくない台詞をあえて言わせることがあります。いまの役者の状況でこれを言わせたらつらいような、役者からも『言いたくないです』と言われるような言葉を。だけど、その気持ちを飲み込んで発した台詞のリアリティは半端ないものがある。それを石原さんはこの作品でやり遂げている。役者生命をかけて挑んだ作品だと感じました。魂を削る作品に毎回出会えるわけじゃない。もともとすごい役者だと思っていたけれど、本作は本当にすばらしかったし、それを引き出した吉田監督ってやっぱりすごいなと。『空白』とか『ヒメアノ~ル』なども好きな作品です」。 ■「日本のテレビが視聴率重視である以上、事実に編集が入るのは多々起こっている現実」 テレビの世界で活躍してきた鈴木は、マスコミや報道の描かれ方にも思うことがたくさんあったようだ。「報道は真実を伝えるものじゃないの?っていうけれど、報道という名がありながら、ネタを選んでいる時点で誰かの趣味やセンスが入っている。例えば、中村倫也さんが演じていた砂田も、美羽ちゃんの事件を選んで放送している。なぜそれを選ぶのかと言ったら、行き着くところは視聴率なんですよね。ニュース番組や情報番組など、毎日放送しているものには、視聴率が悪かったら番組が終わるという現実があります。劇中にも、テレビ局の社員がぽつりと口にする『視聴率ってなんですかね?』という台詞があったけれど、日本のテレビというビジネスモデルが視聴率重視である以上、ピックアップするネタを選んだり、事実に編集が入ったりするのは多々起こっている現実だと思うんです」と、テレビを通して伝えることのリアルもキッパリと話す。 「僕自身も自分の番組を持っていたら、視聴者が観たいネタを選ぶと思うんです。例えば、番組内で誰かの人生を放送した時に、その人が悲しい現実を話したとします。でも、僕たちは『もっとほかの(印象的な)話はないですかね?まだほかの番組で言ってないことはないですか?』って訊かなきゃいけないんです。それがよく表現されていたのが、沙織里の家を訪れた取材クルーのカメラマンが、取材中に沙織里が悲しげにつぶやいたコメントに対し、ボソリとツッコミを入れるシーン。娘がいなくなっている親が目の前にいるというシリアスな状況にも関わらず、テレビとしてのクレイジーさが出ていて、すごくリアルでおもしろいなって。あのような状況が、ときには滑稽にさえ映るというのは、僕からするとすごく胸が痛いけれど、本当にこういうことってあるんだよな、という感じでした」と劇中で印象に残ったシーンを挙げる。“事実を伝える”報道番組にしても、ネタの視聴率が良ければ次の日は尺を長めにして扱い、悪ければ短くなる。自分がこれをやりたい!という想いよりも、視聴率で決めるというルールがある以上、上司の指示に葛藤する砂田の気持ちもすごくわかるし、そのルールにのっとってうまく立ち回り出世するような、キー局に転職した社員の気持ちもわかるんです」と、テレビの伝え方を知る立場だからこそ感じた部分を指摘した。 映画では、マスコミ報道をきっかけに広がるSNSの誹謗中傷、現代社会の闇も描かれている。SNS社会となった現代、テレビとしての伝え方に変化はあったのだろうか。「テレビは大勢の人に見せるもの。例えばなにかキラキラしている番組がヒットした時、番組開始から3か月~半年くらいはいいけれど、長く続けようと思ったら、その“キラキラ”を継続させるために裏でスタッフがすごい努力をするんです。タレントがやりたくないものや、抵抗感を持つものがおもしろがられたりすることもある。世の中が新しいものを見たいと望めば、ときにはタレントが身を切りだしていかなければいけなかったりもする。僕たちは、どうしたら対象者から新しい話が聞けるか、ということのために鬼にもなります。テレビって作る側も出る側も、結構覚悟するメディアなんです」。 当時は鬼になっていたけれど、当然葛藤することもあったと吐露。「結局は観たいか、観たくないか。ある番組で大食い女王がブレイクした時に、世の中が知りたがったのは、本当に彼女が吐かずに食べているかどうか。そこで大食いをしたあとにレントゲン写真を撮るという企画を番組でやったんです。それってある意味めちゃくちゃ残酷なことですよね。でも、TVショーとしてはおもしろいし、実際に視聴率もすごくよかった。彼女が本当に食べてるというゴールがあるからこそ、“稀代の詐欺師なのか!?”みたいにテロップで出したり、真偽をわざと盛り立てるんです。それってテレビの残酷なところだし、こういうことまでしないと、テレビって振り向いてもらえないメディアなんです。これも、10年以上前だからできたことで、いまの時代にはできないことですけれどね」と、視聴者の興味を惹く見せ方に言及。 テレビの作りとSNSの構造は違うものだが、数字で評価されるという共通点もある。「SNS組や番組の一部を切り取って投稿したものがバズったり、トレンドに入ったりすれば、たとえその内容が不幸なものであれ『やった!』と喜ぶのが、僕らがやっていること。このインタビュー記事も、どこかがおもしろいように切り取られて100万PVですってなったら、媒体の皆さんは喜ぶと思うんです。それが残酷なことだったとしても、皆さんの本意じゃなかったとしても、数字が取れれば喜ぶ。数字でジャッジされるのはすごく残酷だと思うけれど、仕事である以上仕方がないと思っています」と語り、再び、沙織里がつぶやいた言葉にカメラマンがツッコミを入れるシーンを挙げる。 「僕は、ある意味、このカメラマンはプロだなと思ったんです。吉田監督が彼をどう見せたいと思ったのかは想像でしかないけれど、あのシーンでは感情移入するよりも、番組作りを冷静にしていることが伝わってきた。もしあのまま放送されたら、番組を観てカメラマンと同じツッコミをする視聴者が、SNS上ではすごく多いと思うんです。あのシーンではある種ドライにも見えるカメラマンにも正義がある、それは優しさでもあるんじゃないかなと思いました」と持論を展開。一方、中村演じる砂田が、沙織里のとあるつらい状況を目の当たりにした時に下した「これ以上撮らない」という決断については、「彼に感情移入はするし、物語上の選択としてはいいと思います。でも、業界で生きる人間として見ると、彼はこの仕事に向いてないと思います。この世界に向いているのは、キー局に転職した人のほうです」と適性を診断した。 ■「気軽に『観たほうがいい』とは言えないほど、すごい映画」 鈴木自身が“感情移入”したキャラクターを問われると、青木崇高演じる父親の目線で物語を追ったという。「最近だと『ゴジラ-1.0』や『犯罪都市 NO WAY OUT』でもすごくいい芝居で、どんどんいい役者になっていますよね。妻が感情的になっている状況で、夫がいかに気持ちを乱さずにいなきゃいけないか、というリアリティを感じさせました。レストランで娘の捜索活動について沙織里と口論になった時、『俺だってやってるよ!』と気持ちを爆発させる瞬間もあったけれど、一歩引いて我慢しなきゃいけないという父親のつらさが伝わってきました。ラストの泣きのシーンはめちゃくちゃよかったです」。 吉田監督作品では一番のお気に入りとなり、すばらしい映画だと大絶賛の鈴木だが、簡単には人におすすめできないとも話す。「リアルな意見を言うと、妻にすすめられるかと言ったら、ちょっと考えてしまいます。母親として観てつらくなるのもわかるから、気軽に『観たほうがいいよ』とは正直言いにくい。すばらしい映画であることは間違いないけれど、覚悟を持って観なきゃいけないし、観たら絶対しんどくなると思うので。子を持つ親として、リアリティがすごすぎるから、すすめる相手を選ぶ気はします。中途半端な気持ちではおすすめできない、そのくらいすごい映画を観たなって思っています」。 物語の終わらせ方にも吉田監督のこだわりが詰まっている。この結末を鈴木はどのように受け止めたのか。「塞ぎ込んでコミュニケーションができなくなってしまった主人公と、弟も含めた家族関係というのがあって。でもこの状況を背負いながら生きようという感じの一歩なんじゃないかなと思いました。前を向いていると感じられた結末でした」。 取材・文/タナカシノブ ※吉田恵輔監督の「吉」は「つちよし」が正式表記