“偽名入団”した本塁打王…軍需工場→大学進学→《プロ入りできるのならと地元の名を拝借した》【仰天野球㊙史】
【仰天野球㊙史】#2 ドラフト指名の新人選手が次々と仮契約を結んでいる。高額の契約金を手に夢と希望を持って。みんな明るい。このプロ入りで、かつて“偽名入団”し、スーパースターに上り詰めた若者がいた。 【写真】「50-50」の大谷もビックリ?世界の王貞治がやってのけた「パーフェクトスチール」 セ・パ2リーグになった1950年、松竹ロビンスの4番打者として優勝に貢献、セ・リーグ最初のホームラン王を獲得し、MVPに輝いた小鶴誠のことである。この時代の使用球は飛ぶボール、いわゆるラビットボールで、51本という信じられない数字を残した。 この小鶴、戦前は八幡製鉄でプレーしていた。41(昭和16)年に名古屋(中日の前身)入りしたのだが、とんでもない策を弄した。その頃、八幡製鉄は政府から軍需工場に指定され、退社は軍部が認める理由が必要でプロ野球入りなどもってのほかだった。 知恵者がいて「まず大学に行け」。進学なら退社は認められたからである。そこで日大に入学。それからプロ入りという“禁じ手”を使った。ただし、「小鶴誠」の名ではバレてしまう。また知恵者が「名字を変えてしまえばいい」。「飯塚誠」と名乗って“スチール入団”を果たしたのである。小鶴が後年語っている。 「プロ入りできるのなら、と考えて、私の地元の飯塚の名を拝借した」 出身校は飯塚商だった。名古屋の名簿には「背番号32 飯塚誠 21歳」とある。9月になると本名に戻したのだからずうずうしい。 小鶴はゴルフスイング打法で一時代を築き、顔が似ているところから「和製ディマジオ」と呼ばれた。ジョー・ディマジオはマリリン・モンローと結婚したヤンキースの至宝。小鶴がどれほどのスターだったかが分かる。のちに事業家、80年に殿堂入り。 (菅谷齊/東京プロ野球記者OBクラブ会長)