なぜ日本では「冤罪」が後を絶たないのか?…冤罪を生みやすい「日本の刑事司法システム」の「構造的な問題」
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏(明治大学教授)の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 【写真】「一度も無罪判決を書いたことがない」裁判官がいるという「驚愕の事実」 「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視…なぜ日本人は「法」を尊重しないのか?『現代日本人の法意識』では、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では〈なぜ日本では「国際標準」を満たさない法が定められるのか?…日本人の法意識にひそむ「闇」を暴く!〉につづき、刊行インタビュー第3回を公開します。 Q 『現代日本人の法意識』のなかで瀬木さんは、「刑事司法における明らかな病理現象である冤罪は、刑事司法関係者の法意識によって規定されている部分がかなり大きい」と分析されています。アジアでいち早く近代化に成功し、欧州の近代的司法システムを最初に導入した日本において、なぜ冤罪が後を絶たないのでしょうか? 冤罪は、刑事司法の宿痾ともいうべきもので、どこの国にでもあります。しかし、日本特有の問題もあります。それは、日本の刑事司法システムが冤罪を生みやすい構造的な問題を抱えていること、また、社会防衛に重点を置く反面被疑者や被告人の権利にはきわめて関心の薄い刑事司法関係者の法意識、そして、それを許している人々の法意識、という問題です。日本の刑事司法システムは、為政者や法執行者の論理が貫徹している反面、被疑者・被告人となりうる国民、市民の側に立って右のような国家の論理をチェックする姿勢や取り組みは非常に弱いのです。 誰でも嫌疑をかけられ、逮捕されることはありうる、だから市民一般の人権は守られるべき、という視点が薄いのです。 こうした点では、日本人の法意識は、前回のインタビューでお話しした江戸時代の刑事司法に関する法意識をそのまま引きずっている面があります。「人質司法」ともいわれる長期の身柄拘束がその典型的な表れです。 冤罪を防止するためのシステムの整備という点からみても、日本の状況には、大きな問題があります。 まず、冤罪が実際にはどのくらいあるのかすら全くわかりません。表に出てくる情報もほとんどありません。キャリアを通じて真摯に刑事裁判に取り組み、約30件の無罪判決を確定させた裁判官(木谷明氏。公証人、法政大学法科大学院教授を経て現在は弁護士)がいる一方、刑事系裁判官の多数はごくわずかしか無罪判決を出しておらず、「ゼロ」という裁判官さえ一定の割合で存在します。特定の裁判官にだけ無罪事案が集中するのはきわめてありにくいことですから、たとえば刑事系裁判官が控えめにみて1人当たり10の冤罪を作っている可能性があると考えてみると、日本における冤罪が、いかにありふれたものでありうるかがわかるでしょう。 Q 恐ろしいことですね。 冤罪を生み出す刑事司法の最大の闇と言われるのが「人質司法」です。言葉として知っている人は多いと思いますが、その具体的な中身となると、正確に理解できている人は少ないように思います。どのようなものか説明していただけますか? 「人質司法」は、身柄拘束による精神的圧迫を利用して自白を得るシステムのことをいいます。 勾留期間20日間に逮捕から勾留までの期間を加えると最大23日間もの被疑者身柄拘束が常態的に行われています。また、否認したまま起訴されると、自白まで、あるいは検察側証人の証言が終わるまで保釈が許されず、身柄拘束が続くことがままあります。これは、非常に長い期間になりえます。また、第一回公判期日までは弁護人以外の者(家族等)との接見が禁止される決定がなされることも多いです。 「人質司法」は、日本の刑事司法の非常に目立った特徴であり、明らかに冤罪の温床となっています。しかし、これについては、近時ようやく一般社会の注目が集まるようになってきたという段階であり、改革は、ほとんど手つかずのままです。 Q 冤罪を防止するためのシステムについては、ほかの国はどうなのでしょう? たとえばアメリカでは、ロースクール、公設弁護士事務所等を中核とするイノセンス・ネットワーク、その中核となっているイノセンス・プロジェクト(非営利活動機関)が、刑事司法改革に取り組み、冤罪に関する調査を行い、冤罪の可能性のある事件についてDNA鑑定等を利用して再審理を求め、イノセンス・プロジェクトだけでも300件以上の有罪判決をくつがえしています。そして、こうした活動には連邦や州も協力しています(なお、イノセンス・ネットワークは、アメリカ以外の国々にも展開されています)。さらに、多くのロースクールには、冤罪を含む刑事司法の問題について中心的に研究しかつ教えている教授がいるので、そうした事柄に関する平均的な弁護士、裁判官のリテラシーについても、一定水準のものは確保されるようになっています。 アメリカの刑事司法も決してバラ色ではありませんが、少なくとも、「冤罪という問題」の存在を「直視」し、そのような「不正義」から被害者を「救済」するための充実した「取り組み」があり、連邦や州等の「公的セクション」も、その必要性と意味を認めて「協力」しているという点は、日本とは全く異なります。 Q 1966年に静岡県のみそ製造会社の専務一家4人を殺害したとして強盗殺人罪などで死刑判決を受けた袴田巌さんの冤罪事件では、無罪が確定するまでに実に58年間以上がかかっています。警察や検察の杜撰な捜査を見ていると、無実の罪で命を奪われた死刑囚も少なくなったのではないかと思ってしまいます。 死刑制度にはいくつも問題がありますが、その1つが、被告人が無実の罪で死刑にされてしまった場合、取り返しがつかないということですね。国家による殺人になってしまいます。 これについては、戦前の日本では、そうした例は相当にあったのではないかといわれています。戦後については、戦前ほどのことはないはずですが、たとえば、DNA型鑑定のほかには不確実な情況証拠しかなく、実際には同鑑定が有罪の決め手になっていた疑いの強い「飯塚事件」(1992年2月20日に福岡県飯塚市で起こった2人の女児の誘拐、殺人、死体遺棄事件)では、判決確定からわずか2年余りという早さで死刑が執行されました。ところが、そのタイミングが、飯塚事件と同じ方法のDNA型鑑定が行われた別の事件である足利事件(1990年5月12日に栃木県足利市で起こった女児の誘拐、殺人、死体遺棄事件)に関して「再鑑定の方向へ」との「報道」がなされた直後だった(いずれも2008年10月)ことから、DNA鑑定の問題を隠蔽するために死刑執行が急がれたのではないかという疑念が、刑事弁護士、学者、関心のあるジャーナリストの間で広まりました。 足利事件の再鑑定で「被告人のDNA型との不一致」との結果が出たのは2009年の4月です(その後の再審で宇都宮地裁の無罪判決が出たのは2010年3月26日)が、この結果が出れば、飯塚事件についても、少なくとも死刑の執行は困難となった可能性が高いからです。再審請求の準備をしていた弁護団も、まさかこのような時期に刑の執行があるとは考えておらず、再審請求をもっと早く出すべきだったと悔やんだといいます。 要するに、過去のDNA型鑑定の問題が明るみに出てその結果が飯塚事件等の他の事件にも波及することを避けるための執行だったのではないかとの疑惑がもたれてもやむをえないような時期の執行だったということです。実際、先に述べたとおり、刑事系の実務家・学者にもにもそうした疑いをもっている人は多いです。これは、欧米であれば大きな社会問題となりうるような事柄ですが、日本では、当時はほとんど報道すらされませんでした。 Q 飯塚事件の死刑執行は問題があると聞いてはいましたが、そんな恐ろしい経過があったのですね。 さて、袴田事件では致命的なミスを犯した警察・検察ですが、直美検事総長は、袴田事件についての控訴権放棄に際して、証拠捏造(ねつぞう)を認めた静岡地裁判決について「捏造と断じたことに強い不満を抱かざるをえない」と批判する異例の談話を出していますね。控訴を断念したにもかかわらず、まるで反省していないようにみえます。 日本の刑事系裁判官の多くは無罪判決を出すことに及び腰ですが、証拠捏造を判決で認めることについてはさらに消極的なのです。にもかかわらず袴田事件ではそのような判断が出たので、さすがにこの段階での控訴は世論の大きな批判を浴びるだろうということから断念したけれども、先のような判断については釘を刺しておきたい、そんなところでしょうね。 Q 実に官僚的ですね。 起訴権という強大な権力を何らのチェックを受けることなく独占している日本の検察は、強気、一枚岩の強力な官僚集団です。 Q 警察、検察が自白を引き出すために被疑者・被告人の拘束を続けるという「人質司法」は、言語道断ではありますが、一方で、「絶対に有罪を立証したい」という検察の論理からすれば、ある意味、理にかなった行動のように感じます。理解できないのは、なぜ裁判所がやすやすと検察の請求を認めるのかです。 たとえば、裁判所が勾留を認める理由の大きなものは、「罪証隠滅の恐れ」ですが、ほとんどの事件でこれが安易に認められているように思えます。 まず、制度の基本的な組み立ての問題として、被疑者、被告人の長期の身柄拘束が可能になっており、一方、取り調べへの弁護人の立会は認められないし、実際上、被疑者や被告人と弁護人の接触の機会、時間も限られているということがあります。何というか、江戸時代の制度を引きずっている感はありますね。 次に、裁判官が被疑者の勾留を始め身柄拘束全般について安易に認めてしまうという問題があります。近年は多少審査が厳しくなったとはいえ、国際標準からみればありえない安易さで罪証隠滅や逃亡のおそれを認めている。 しかし、こうした点は、個々の裁判官の力だけではなかなか変えてゆきにくい面があり、裁判官の意識だけではなく、それを監視する人々や法律家、知識人の意識まで変わってゆかないと、容易には変わりません。 Q 本書ではふれられていない事件ですが、冤罪が認められた「大川原化工機事件」では、逮捕・起訴された同社顧問の相嶋静夫さん(当時72歳。その後に起訴取消し)が十分な治療を受けられず、最終的にがんでなくなりました。 また、東京五輪をめぐる贈収賄事件でも、容疑を全面否認した角川元会長が、226日間にわたり東京拘置所に勾留されました。角川氏は、心臓に持病があり、連日の取り調べを受けて何度も人事不省になり、逮捕から5か月が過ぎた頃、弁護士との接見中、気を失ったといいます。 容疑を否認して無罪を申し立てると、いつまでも拘置所から出られず、満足な医療も受けられない。こうした非人道的なことが一向に改められないのでは、刑事司法関係者の法意識は江戸時代よりもっと以前ではないかとさえ思います。 刑事司法全体について、警察、検察のみならず、裁判官や拘置施設職員の法意識までが「有罪推定」で貫徹してしまっているので、必要な医療を受けさせるという最低限のことにも思い至らなくなってしまっているのでしょうね。そもそも、人間の尊厳という視点が欠落してしまっている。 でも、これも、根をたどれば、日本人の法意識一般の問題でもあるのですよ。 犯罪と刑罰に関する日本人の法意識は、素朴であると同時に、やや硬直的でもあります。 「犯罪は一種のケガレであり、犯罪の疑いをかけられることすらケガレである。火のないところに煙は立たない」 日本人の犯罪と刑罰に関する法意識のうち無意識に近い部分には、そうした感じ方さえうかがわれる場合があります。 Q なるほど。古い法意識の残存ですね。 そうです。このような、無意識レヴェルに根付いている可能性のある法意識は、その源流をたどれば、おそらく、近世以前にさかのぼることができるでしょう。 これについては、江戸時代の裁判の実際を、当事者の座る座席に示された身分秩序という観点から詳細に論じた、『現代日本人の法意識』でも取り上げている書物に衝撃的な記述があります(尾脇秀和『お白洲から見る江戸時代――「身分の上下」はどう可視化されたか』〔NHK出版新書〕)。その部分を私の言葉でまとめ直すと、こうなります。 「お白洲において一般的には砂利の上でなく縁側に座ることを許されていた身分(武士、僧侶等)の被疑者も、未決勾留を命じられるとともに、突然縁側から地べたの砂利に突き落とされて縄で縛られる。ここには、嫌疑を受けること自体を『罪』とする江戸時代の人々の見方が表れている」 Q そのように指摘されると、私自身にも思い当たる節はありますね。 江戸時代の人々の見方について学者が記していることが実は現代日本人にも相当程度に当てはまっているというのは、否定しにくいですよね。ホント、痛いです。 それで気付いたのですが、『現代日本人の法意識』のみならず、『絶望の裁判所』〔講談社現代新書〕、『ニッポンの裁判』〔同〕、『檻の中の裁判官』〔角川新書〕のような瀬木さんの司法批判・分析書にも、『我が身を守る法律知識』〔講談社現代新書〕や『民事裁判入門』〔同〕のような教養新書にも、この「痛み」の感覚はありますね。 そうですね。そうした「痛み」の感覚は、研究書・専門書をも含め、私の書物の多くに共通してあると思います。創作である『黒い巨塔 最高裁判所』〔講談社文庫〕では、それがより明確に出ているかもしれません。裁判官をやりながら研究・執筆を始めた理由や、学者に転身してそれをさらに推し進めてきた理由のコアにある感覚の1つが、それですね。 Q 有罪を認めない限りいわゆる代用監獄や拘置所から出してもらえないとなると、一般人では、よほどの強靭な精神力がないと耐えきれません。民事訴訟法の権威である瀬木さんであっても、身に覚えのない冤罪で逮捕、勾留された場合、かなり精神的に追い込まれるのではないですか。 いや、それは間違いないし、トラウマとしても残るかもしれませんね。信頼できる弁護士にすぐに連絡、依頼することで何とか対処はできるかもしれませんが、それがもしできなかったら、どうなるかわからないです。 実際、過去の冤罪事件では、気の弱い人だと、死刑になりかねないような重大事件についてさえ、本当に短い期間で、ほとんどあっという間に、おどされたりどなられたりして虚偽自白をしてしまっている例があります。ここは、読者の方々も本当に注意しておいてほしいですね。 『我が身を守る法律知識』の第4章では、痴漢冤罪に巻き込まれそうになった場合の対処法について約10頁にわたり詳細かつ正確に記していますが、この部分は、「たとえば自分だったら、また編集者をも含む知人だったらどうすべきか。何ができるか」を考えながら厳密に記していったものです。私は弁護士登録をしていないこともあり、弁護士の視点よりも当事者の視点に立って説いています。 * 【つづき】〈「一度も無罪判決を書いたことがない」裁判官がいるという「驚愕の事実」…なぜ刑事系裁判官は無罪を出すのに躊躇するのか?〉では、刑事司法をめぐる日本の現状をみていきます。 * さらに〈ベテラン裁判官「痴漢冤罪で無罪はほぼ出ない」…検察の主張を鵜呑みにする「裁判所のヤバすぎる内部事情」〉では、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)
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