能登へ向かう東北の若者 もう大人「私たちの番」 あの日、今も胸に
「小4の自分の姿を重ねました」
輪島朝市から南西20キロの門前町では、東北から来た陸上自衛隊員が、入浴支援をしている。テント型の仮設浴場の受付で20代隊員2人と出会った。 宮城県石巻市出身の阿部航大さん(25)は東日本大震災当時、海から700メートルの場所にあった同市立湊第二小学校の6年生だった。校舎3階に避難したが、2階まで濁流が押し寄せ、「死ぬ」恐怖を感じた。助かった後、懸命に働く自衛官の姿を見て、「誰かの役に立ちたい」と入隊した。 「ストレスで体重が減った住民もいます。余震も原発の影響も心配だった小4の自分の姿を重ねました」と、福島県小野町出身の矢吹彩乃さん(23)。受付に来た米農家の50代男性が「でっかい湯船に漬かると、明日も頑張ろうと思えんだ」。 石川県能登町の柳田体育館で午後1時ごろ、宮城県庁の職員らが40超の避難所へ提供する生活物資を積み込んでいた。職員厚生課の佐藤加冶木さん(22)は同県栗原市で東日本大震災を経験。小学3年生だった当時は「何が起こっているか理解できなかったですよ」。 体育館にはストーブが数台しかなく、被災者の吐息は白い。佐藤さんは「僕もたくさんの人に支えられた。体力仕事は任せてください」と、乳酸菌飲料50箱を積み終えて言った。
取材後記
東日本大震災当時、千葉県浦安市で震度5強の揺れを経験した。小学5年生の教室で夕方、地震が始まり、急いで机上の彫刻刀をしまったのを覚えている。 液状化でぬかるんだ街を歩くと、身長135センチの自分と同じ高さまでマンホールが突き出ていた。駆け付けたボランティアが泥かきなどを担い、浦安は1、2年後には元通りの風景になった。 この経験を輪島市災害たすけあいセンターの荒木正稔さん(53)に話すと、「(輪島では)そううまくいかないと思う」と返された。市民の大半が地域に残り、ニーズに応じて人手を派遣した浦安に対し、輪島は二次避難中の人が多いからだという。被害が大きいほど、ニーズの把握が難しい。災害支援の在り方を考えさせられた。(佐野太一)
日本農業新聞