月光仮面が都内大通りをバイクで疾走 昭和30年初期の大らかすぎる撮影現場
「月光仮面」は安づくりではあったが、当時としてはけっこうハイテンポな、小刻みなカットつなぎが好評だった。 ところがそれも船床監督の積極的なアイディアというよりも、ワンカット28秒しか回せないゼンマイ式の16ミリカメラを使わなければならない、という現場的な制約から生まれた苦肉の策であった。そんな今となっては笑い話のような涙ぐましいエピソードだが、若い現場スタッフたちは必死であった。 そんな現場の状況を、引き続き主演の大瀬康一氏に聞いてみたい。 ※「【連載】「月光仮面」誕生60年 ベンチャーが生んだヒーロー」第7回(全10回)。連載第6回~9回では、映画評論家・映画監督:樋口尚文さんによる俳優・大瀬康一さんのインタビューをお届けします。
大らかすぎる撮影現場 月光仮面が都内大通りをバイクで疾走、警視庁の屋上での撃ち合いも余裕だった
―― 撮影時の月光仮面は東京の大通りをバイクで疾走していますが、今では無理なことですね。 大瀬:あの頃はそういう撮影もそんなには無理じゃなかったですね。昭和30年代も初めですから都内の電車通りでも車は少なかったんです。都電は銀座から青山まで走ってましたけど、電車しか走ってないのでどこでも撮影はやれましたね。警視庁の屋上で月光仮面と悪役がパーンパーンと撃ち合いするシーンなんて、今だったら考えられませんよね(笑)。 ―― 世の中が撮影というものに鷹揚だったんですね。でも放映後しばらくして人気に火がつくと、撮影のギャラリーも増えて大変だったのではないですか。 大瀬:それはそう。以前なら単に「撮影だ」という好奇心でみんな見物していたのでしょうが、人気が出てくると「月光仮面だ!」ということで人だかりの数が違いましたね。そんなふうに皆喜んでくれてるんだけど、当初は10分もののしょぼい番組だし、さすがにスタッフの人数は少ないし、カメラも小さいから、これで大丈夫なのかなという心配はありました。 ―― だって大瀬さんは大部屋とはいえ最盛期の撮影所でお仕事なさっていたわけですものね。 大瀬:そうなんですよ。自分はまがりなりにも東映のちゃんとしたカメラの前で演技していたわけだから、これは本当にどういうことになっていくのかなと不安を抱えつつやっていたわけですよ。実際、制作が追っつかなくて、記者さんに披露する試写会に間に合わないなんてこともありましたからね。 ―― そこでブーイングの記者たちに、宣弘社の小林利雄社長が「これはわが国のテレビ映画の本格的な意味での第一号なのだから、どうか芽をつぶさないで応援してください」と必死の演説をしたそうですね。 大瀬:それが30分番組に昇格して人気が出てくると、たまの休みにまで取材が入るようになりましてね。視聴率がよくなる一方だったので、三大新聞まで取材に来るようになったんです。