宮藤官九郎のドラマ論が詰まった『不適切にもほどがある!』 岡田将生の“正しい”起用も
理不尽な結末に対して市郎(阿部サダヲ)がクドカンに怒っているようにも見える
第1話からちりばめられた伏線が綺麗にハマる完璧な脚本を書こうとして、筆が止まっているエモケンに対して「あんた、神様かね?」と、市郎は疑問を投げかける。 「自分のドラマに対してはそうだね。神の視点を持っているよ」とエモケンは答えるのだが、「そんな考え方は傲慢だ。どうなるからいつまで続くかわからないから、ドラマも人生も面白いんじゃないか?」と市郎は反論し「俺と純子の最終回はな、決まってんだよ!」と激昂する。 エモケンが脚本家ということもあってか、この場面は、自分と娘が死ぬことが決まっているという理不尽な結末に対して、市郎が作者のクドカンに怒っているようにも見える。 同じ脚本家だからという理由だけで、エモケンとクドカンを重ねるのは安易かもしれないが、伏線が綺麗に回収される完璧な脚本を書きたいというエモケンの意見も、ドラマも人生もいつか終わるのだから「ギリギリ手前まで、とっ散らかってていいんじゃないかね」という市郎の意見も、クドカンの中に共存するテレビドラマに対する考えなのだろう。 また、劇中には視聴者からのドラマ論も登場する。SNSでつぶやきながら考察し、伏線回収に夢中になる今時の視聴者の姿が描かれる一方、ドラマを全部通して観たことがなく、たまたま観た回が好きなら、自分にとってそれは好きなドラマだと語る、ナオキの意見も描かれた。 ナオキの発言は、純子との関係をドラマに例えて「好きなら1話からちゃんと観てぇと思わねぇか?」と市郎が尋ねたことに返したものだ。冷たい意見にも聞こえるが、純子の素性は聞かずに『ローマの休日』のような楽しい時間をいっしょに過ごそうと考えるのが彼の優しさだった。対して、父親の市郎は、娘子の物語を始まりから最終話まで見守りたいと考えている。 ドラマの見方が人それぞれ違うように、愛情の形も人それぞれ違うのだと伝わってくる対話である。
成馬零一