「一番恐れていた反応ばかりだった」長谷部真奈見 娘がダウン症だと周りに伝えるまで3年、友達とのご飯の帰り道も「早く電車を降りたかった」
2008年に娘を出産したフリーアナウンサーの長谷部真奈見さん。しかし、娘にダウン症があると周りに伝えるまで3年にも及ぶ時間がかかったそうです。(全5回中の4回) 【画像】「水色のフィギアスケートの衣装がかわいい」娘さんの姿から家族3人で撮った卒業式の写真まで(全13枚)
■「真奈見ママ、何かあったね」 ── 2008年8月に娘さんを出産。しかし娘さんのダウン症について、周りの方に伝えるのに少し時間がかかったそうですね。 長谷部さん:臨月まで東京にいて里帰り出産しましたが、周りの知人、友人にはしばらく娘のことは言えなかったですね。娘は生まれてしばらくNICU(新生児集中治療室)にいて、私だけ先に退院してきたんです。友だちからメールをもらっても一緒にいないし、どうしようと思いながら挨拶だけ事務的に返して。でも、子どもの写真も一緒に送らないのも不自然ですよね。あと、いつ東京に戻ってくるの?と聞かれても、私もいつまで実家にいるのか先が見えなかったし、娘を飛行機に乗せて、長距離の移動に耐えられるのかもわからなかった。周りもなんでそんなに里帰りしているのか不思議に思ったかもしれませんが、しばらくは何も言えなかったんです。
ただ、娘がダウン症だと気づかないような写真が撮れたら、それを送りたいなとは思っていたんです。いろいろな角度から娘を撮って、ダウン症の特徴がわかりにくい写真を送ったつもりでしたが、今思えば誰が見てもなんとなくわかるんですよね。 なかなか現実を受け入れることができないまま、この先娘は歩けるようになるのだろうか、耳は聞こえて、しゃべれるようになるのか。合併症と言われるものがどれくらい出てくるのかわからなかったので、この先がイメージできませんでした。5年後…いや、1年後の見通しが立たなかったので、すごくつらかったですね。
── 周りの方にはどうやってお話しようと思いましたか? 長谷部さん:妊娠中にベビーシッターの会社で仕事をしていましたが、そこが一番言えなかったですね。娘の写真を送っても全員気づくでしょうし、写真を見ても「なんて言葉をかけたらいいんだろう」って一瞬、悩むのがわかるから。悩ませるのも申し訳ないし、ほっといて欲しい。心配してほしくなかった部分があります。だから、いろいろ考えてしばらく言わなかったんですけど、一番信頼していたチャイルドケアアドバイザーの方から連絡が来たんです。
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