センバツ2024 京都国際 “忘れ物”聖地に今も 無念背負って「取りに行く」 /京都
◇22年、コロナ禍で出場辞退 「今回はあの時の選手たちの無念の思いも背負って戦いたい」―。3年ぶりのセンバツを控え闘志を燃やす京都国際。小牧憲継監督は、出場決定直後の取材で、新型コロナウイルス禍に見舞われ開幕前日に出場辞退を余儀なくされた2022年のセンバツに話が及ぶと、まずこう語った。【矢倉健次】 【写真で見る歓喜の瞬間】歴代のセンバツ覇者たち 22年はその後、出場辞退による精神的なショック、コロナ禍による体調不良、調整の遅れから選手たちは立ち直り、夏の京都大会を勝ち抜いて見事に甲子園出場を果たした。これでチームとして春の無念を晴らし、区切りをつけたと想像していたので、やや意外な発言だった。小牧監督に再度あの「無念」の真意を聞いてみた。 「彼ら(のチーム)にとっては人生で一回きりのセンバツでしたから」 確かに22年のセンバツに登録されたメンバーと夏の甲子園に出場したメンバーは3人が入れ替わっている。だが、それだけではない。コロナ禍に見舞われてからのチームの経緯を振り返ってみよう。 大会前、当然ながら感染には細心の注意を払い、地元を出発して宿舎に移動した時点で発熱などコロナの症状がある選手はほぼ皆無だったという。だが開幕を4日後に控えた3月14日に実施されたPCR検査で帯同した部員31人中、登録メンバーを含む8人が陽性と判定され、16日にもPCR検査を実施するとさらに5人が陽性となり、大会本部にチーム内の集団感染と判断された。17日には最後の望みをかけて陽性判定された選手とスタッフ計14人がPCR検査を受けたが、全員の陽性は変わらず、大会本部に出場辞退を申し入れ、学校で朴慶洙(パクキョンス)校長が記者会見で発表した。 辞退を受けて急きょ補欠校として近江(滋賀)がセンバツに出場し、準優勝に輝いた。選手、スタッフが「無念」を改めて感じたのは、その近江からの打診で同年6月にマイネットスタジアム皇子山(大津市)で実現した練習試合だった。センバツで決勝以外の4試合を1人で投げ抜いた山田陽翔(現西武)だけでなく、近江の選手たちが皆一つ一つのプレーに自信がみなぎり、甲子園で大きく成長したことが対戦して肌で感じられたという。 この試合でセンバツ辞退の影響を引きずっていた選手たちのプライドに火が付き、夏の甲子園を目指す機運が高まったのは確かだったが、プロ注目の存在だった左腕エース森下瑠大(現DeNA)はコロナの影響もあって左肘や腰の相次ぐ故障に苦しんでいた。近江との練習試合では「返礼」の登板もできず、夏の京都大会は準決勝を前に腰の痛み止め注射を打って初めて救援で登板。決勝前にも注射を打ち初先発し、天性の投球センスを見せて6回を1失点にまとめ「甲子園帰還」を果たした。 しかし、再び腰は限界に近づき10日以上間隔を空けて注射を打つ必要があった。甲子園では「できる限り、遅い日程での初戦を」とチームの誰もが願ったが抽選の結果は京都大会決勝から10日目の第1日の試合。注射は打てず「最初から森下を3回以上投げさせるつもりはなかった」と小牧監督は言う。一関学院(岩手)相手に本来の出来からほど遠かった森下は3回4失点で降板し、救援投手陣と打線の頑張りで延長戦に持ち込んだが十一回サヨナラ負けで短い夏は終わった。「自分は勝負にこだわるタイプの監督だが、森下以外にもコロナ禍の影響などでけがの選手が続出し、あの試合だけはなるべく多くの選手を起用しようとした。辞退からよく立ち直って甲子園までたどりついたという思いが強く、今考えれば『修学旅行気分』だったかもしれない」 森下を擁し優勝候補の一角にも挙げられていたセンバツで思う存分試合が出来ていれば、チームの結末もまったく違ったものになっていただろう。「幻のセンバツ」の無念を忘れず、その分も甲子園で成長してほしいという小牧監督の思いは、現チームの誰もが強く感じている。京都国際にとっては、忘れ物を取り戻しに行く春でもある。 〔京都版〕