「国政に言いたいことは山ほどある」泉房穂・前明石市長が緊急提言!霞が関官僚を生かすには政治家の大方針が必要
誤解があるかもしれないので、自分のスタンスをはっきりと申し上げておきたい。 私は、「官から民へ」派ではなく、官僚バッシング派でもない。「公の仕事は尊い」と考えている生粋の〝公派〟の人間である。 もちろん、民間には民間の良さがあるが、この世の中、全てが民間だけでは成り立たない。儲からないことでも必要なことは山ほどあるからだ。行政サービスはその典型である。 人は生まれた瞬間から人によって支えられながら生きている。人間は集団で生き、社会をつくる。社会を運営していくためには、みんなのために使うお金と、みんなのために働く人たちがいる。それが税金であり、公務員だ。両者はまさに社会の基盤である。 私はまた、増税反対派ではなく、小さな政府派でもない。中負担高福祉派である。公務員がしっかりと汗をかいて知恵を絞り、国民が満足できる高福祉社会を実現したいと切に願っている。 自著の中でも述べてきたが、こうした思いを持つに至ったのは、幼少期の経験が大きい。 私は兵庫県明石市二見町という小さな漁師町で育った。ずっと、貧乏であった。しかも、4歳下の弟には生まれた時から障害があった。チアノーゼ(酸欠状態)で息も絶え絶え。成長しても障害が残ることが明らかだった。 当時の日本には、「優生保護法」があり、国を挙げて障害者を差別する施策を推進していた。なかでも兵庫県は1966年、当時の知事の旗振りのもと、「不幸な子どもの生まれない県民運動」という政策を推し進めていた。 こんな状況だったから、弟が生まれた時、医師は両親にこう言った。 「このままにしましょう」
つまり、見殺しにしようということだ。とんでもない話であり、両親はそれに猛反対して、自宅に連れて帰った。命は救われたが、障害が残った。2歳の時には、脳性小児麻痺で「一生起立不能」とも診断された。 その後もさまざまな葛藤があったが、幸い、弟は小学校に入る前には歩けるまで成長した。嬉しかった。 弟が小学2年生になった時のことである。急に「運動会に出たい」と言い出した。私は「そんなもん走れるか。笑いものにされるだけや」と反対した。だが、弟は「出たい」の一点張り。当日、弟は50メートル走に出場した。 案の定、よろけるばかりで、私は「恥ずかしい。みっともない」と思ったが、弟の顔を見た時、自分の目を疑った。笑っていたのだ。しかも、満面の笑みを浮かべて、全力で前へ前へと進もうとしている。「弟のため」を思って、出ないようにしていた自分が恥ずかしかった。一番冷たかったのは、自分かもしれない、自分が周囲から笑われたくなかったからだけなのかもしれない。反省させられる出来事だった。 こうしたさまざまな経験をしてきたこともあり、私は、「冷たい社会をやさしい社会に変えること」を人生最大の目標として、ひた走ってきた。 誰もがいつかは「少数派」になる。予期せぬことで、突然「少数派」になることだってある。 だが、誰かを排除する社会とは、自分が「少数派」になれば排除される社会でもある。だからこそ私は、自分がマイノリティーだと感じた時、生きづらさを覚える「冷たい社会」ではなく、「やさしい社会」を実現したいと、心の底からずっと思ってきた。