なぜ、夏の甲子園で東京は2つの代表枠を持つことができたのか? “絶対権力者”の反対を振り切った一人の名物監督の“力 ”【東西東京大会50周年物語①】
チャンスが巡ってきた1974年
73年夏の第55回大会で東京大会の出場校は170校。2位である大阪の123校を大きく引き離していた。面積が大きく、参加校も多い北海道は59年の第41回大会から南北北海道の二代表になっていた。「東京から二代表」は、東京の高校野球関係者の悲願になっていた。 60年の第42回大会から72年の第54回大会までは、5年に1度の記念大会を除き、夏の甲子園大会の出場校は30校だった。甲子園に行くには、出場校の多い一部の都府県を除き、近隣の府県と代表決定戦を勝ち抜かなければならなかった。関東地方の場合、単独枠なのは東京と神奈川だけ。栃木と群馬で北関東大会、千葉と茨城で東関東大会、埼玉と山梨で西関東大会を勝ち抜く必要があった。 ところが、78年の第60回大会から各都府県から1校ずつ出場できることが決まった(北海道は2校)。そのため、74年の第56回大会から参加校を少しずつ増やすことになった。東京の代表増枠には、絶好の機会であった。 高度成長期、東京の人口は増え続けており、参加校数は170からさらに増えることは明らかだった。東京都高校野球連盟を挙げて働きかけを強め、74年1月18日、日本高校野球連盟に正式な要望書を提出した。
絶対権力者“佐伯天皇”は難色を示したが……
当時の日本高野連会長だった佐伯達夫は「佐伯天皇」とも呼ばれ、絶対的な権力を有していたが、東京二代表に難色を示したという。 2000年6月9日付の『朝日新聞』に掲載されている当時東京都高校野球連盟の理事長だった山本政夫の手記「白球はるか~都高野連50年 第2部」にはこうある。 〈全国高校野球選手権大会運営委員会で、島岡吉郎副会長が得意の弁舌で説得した。そしてとうとう私たちの言い分を認めてもらった〉 明大時代は応援団長ながら、37年間明大野球部の監督を務め、東京六大学野球のリーグ優勝15回、星野仙一ら球界を代表する人材を育て、東京六大学野球の名物監督であった島岡は、明大明治の監督としても甲子園に3度行っている。46年には都高野連の前身である東京都中等学校野球連盟の設立にも尽力している。 島岡は、佐伯会長にも面と向かって異を唱えることができる球界でも数少ない人物の一人であった。 こうして1974年から東京は2校が出場できるようになった。サッカーやラグビーなどは東京第1代表、第2代表となっていたが、日本高野連は地区をしっかり分けることを要望。東京は東西に長いため、必然的に東東京と西東京に分かれた。中野区、練馬区、杉並区、世田谷区と多摩地区が西東京、そのほかの19区と島しょ部が東東京となった。 なお74年の第56回大会の出場校は30から34に増え、関東地方では茨城と千葉に単独枠が認められ、北関東大会と西関東大会はそのまま残った。 (“超不人気”だった東京の高校野球を「3つの出来事」が変えた! 東京ローカルチーム・桜美林の全国制覇、都立高の甲子園出場、そして……【東西東京大会50周年物語②】に続く)