ザ・クラッシュのジョー・ストラマーが日本の若者に残した最高にクールな言葉とは…印税を放棄してまでファンを優先した男の生涯
ロックの歴史上一番熱いバンドと言っても過言ではない、ザ・クラッシュのボーカル兼ギタリストだったジョー・ストラマー。2002年12月22日に亡くなった彼は、いったいなぜここまで偉大なアーティストとして今でも世界中のファンに慕われているのだろうか。 【画像】「80年代最重要アルバム」と米ローリングストーン誌が評したアルバム
ジョー・ストラマーのブレないカッコよさ
1970年代後半のイギリスでは失業者が増えて、将来への希望を見出せない若者で溢れ返っていた。 そんな中、歴然と存在する階級社会や古い伝統に囚われず、「やりたいことをやってもいい。新しい自由な生き方を自分たちの手で作る」というのが、新しく起こったパンクとインディペンデントの精神だった。 1977年にデビューしたザ・クラッシュは、数あるパンクバンドの中でも特別な存在だった。 それは中心メンバーのジョー・ストラマーの、一貫したブレない姿勢によるところが大きい。 1980年、ザ・クラッシュの名を音楽史に永遠に刻むことになったアルバム『ロンドン・コーリング』の成功を受け、ジョー・ストラマーはまさに”時の人”になっていた。 しかし、ジョーはスターとして特別に扱われることを頑なに拒否した。 逆に、ホームレスを見かければ酒代に消えると分かっていてもお金を渡し、コンサートに行くお金がない若者を見つければ、会場にゲストとして招待した。 ジョーの招待者リストはいつだって、そうした人たちの名前で溢れていた。もちろん移動ひとつでさえ、いつも地下鉄を利用していたという。
「撮りたいものはすべて撮るんだ! それがパンクなんだ!」
そんなある日、ロンドンの地下鉄でのこと。 日本から移り住み、熱い空気を何年か吸い込みながら、新しい音楽が次々と生まれるエキサイティングな時代の中に身を置いていた若者がいた。 カメラマンになったばかりのハービー・山口である。 セントラルラインの駅で、カメラ片手の山口はジョー・ストラマーを偶然見かけたのだ。 ジョーにとってはプライベートな時間。撮影は控えたものの、こんな千載一遇な出会いは二度とないと思い、勇気を出して彼に話し掛けた。 「写真を撮ってもよろしいですか?」 ジョーは笑みを浮かべ、撮影を快諾してくれた。 「すぐに列車が来て、僕たちは同じ車両に乗り込みました。列車に揺られながら彼が降りる駅まで4~5枚撮りました。列車が駅で止まり、彼がホームに降りようとする瞬間、彼は僕に向かって言いました」 「撮りたいものはすべて撮るんだ! それがパンクなんだ!」 異国の地で目的を見失いがちだった若きカメラマンにとって、その一言が心の支えとなったという。 その後、山口が撮影するミュージシャン、アーティストたちの素顔のポートレートは高い評価を受けて、スナップ・ポートレート写真の第一人者として認められていく。 ハービー・山口は、今でも講演会やトークショーなどで、このときのジョーの言葉を人々に伝えているそうだ。 「社会的に弱い人間の心の痛みを知る人だったのではないでしょうか。商業的な成功よりも、社会や環境に恵まれず、くすぶっている若者たちを勇気づけるメッセージを伝えたいと活動していましたから」