前川知大の「まな板のうえ」第5回
劇作家、演出家でイキウメ主宰の前川知大は、知る人ぞ知る、料理人でもある。この連載では、日々デスクと台所に向かい続ける前川が、創作と料理への思いをつづる。 【画像】直近の劇団公演「イキウメ『奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話』」より。(撮影:田中亜紀)(他7件) ■ せめて一品何か…で、1カ月 こんにちは。舞台の本番にかまけて、間が空いてしまいました。すいません。しっかり書く時間が取れなそうだから、今回は軽めにぱぱっと、冷蔵庫にある昨日の残りものを並べて済まそう、800字くらいで。なんて思っても性格的にできないのでした。自分一人ならそれで十分なのですが、誰かに出すものとなると、せめて一品何か作るよ、という気持ちになります。実家での母や義母もそうだったと思い出します。「ごめんねー、それくらいしかないけど」なんて言いながら台所の奥でごそごそやっています。せめて何か一品、と思って食材を漁りながら、今作れる料理を考えているんです。「いいよいいよ、これだけで十分、足りなかったら生玉ご飯でも食べるから」と台所へ向けて私は言います。「そう? 悪いねぇ」「悪くないよ急にこんな時間に帰ってきたんだから」。少しして、私はもうちょっと何かお腹に入れたいと思い台所へ行くと、母は何やらやっています。ボールで小麦粉を練っている。「ちょ、え? 何やってんの?」「餃子作ろうと思って」「今からやることじゃないって! やめてやめて、寝て! マジで」。 こういうことになってしまいがちなので、結局一月空いたのでした。餃子の生地は練り上げて冷凍しました。 ■ 演劇はコントロールすることが難しい さて、前回は作家の作為と自然の無作為という話でした。自然の無作為や自分ではコントロールできない偶然性のようなものを、どう作品に取り込んでいくか、対立ではなく包摂していけるか、そういう態度が作品を豊かにし、自分という小さな枠組みを超えた作品を作ることができる、そんな話だったかと思います。 昔話をします。私は映画が好きで、十代の終わりにシナリオを書こうと思い独学で勉強を始め、大学のサークルで自主映画を撮っていました。脚本を書き、撮影、編集も自分でやりました。この時に活動を共にしていた役者がのちに劇団を立ち上げて、私を演劇の世界に誘ってくれました。それまで私は演劇にはあまり興味がなかったのです。 物語を書きたかったのと、セリフを書くことが好きだったので、小説ではなく演劇の方へ行くことに抵抗はありませんでした。ただ、演出家の仕事は、映像の監督とはずいぶん違うものでした。 当時の私の感覚ですが、映像は、撮影した素材から良いものを選び、繋ぎ、音源と合わせる個人的なもので、私の手の中にある、作家のコントロール度の高い創作物でした。俳優の演技は切り取られ、固定され、素材になります。もちろん、撮影段階で俳優と深くコミットすることを重視する監督はいますし、ここで言う映像の手法というのは、学生の素人監督にすぎない当時の私の感覚にすぎないことをご了承ください。 それに比べ、演劇の場合は、俳優の演技を切り取ることはできず、固定できません。日々変わっていきます。対話はカットで割ることができず、相手の変化に反応することで、お互いに変わっていき、到達点も微妙に違っていくのです。ライブのコミュニケーションという演劇の大きな要素は、映像に比べて自分のイメージ通りにコントロールすることが難しいと感じました。映像は監督のもの、舞台は俳優のもの、なんて言ったりしますが、そういう特徴を当時の私は不自由に感じてしまったんですね。 演劇を始めたばかりの頃は、強いコントロール願望から俳優とぶつかったこともありましたし、不自由や舞台の空間的な制限をうまく表現に転化することができず、失望したこともありました。目の前にある自然と対立してしまっていたんですね。これでは駄目だと、映像から頭を切り替える必要がありました。俳優が自律的に、魅力的に舞台に存在するためにはどうするか、空間や制限を演劇的に利用した見せ方など、試行錯誤する日々が今も続いています。 演劇という表現を続けていくことで、近視眼的なコントロールを手放すことや、偶然性を取り込むこと、包摂的な集団創作がもたらす恩恵などに向かっていくことはごく自然なことのように思われます。私たちの稽古場のキャッチフレーズはネガティブ・ケイパビリティなんですが、この話はまた別の回で。 劇団を立ち上げて二十年が過ぎましたが、個人としても集団としても、そのような変化を遂げてきたわけです。不思議なもので、私個人の食べ物の好みも似たような変化をしているように思います。急に料理の方に戻ってきたな。そう感じましたね。私もそう思います。 ■ 対象への解像度が上がり、“そのまま”に近づく でも、全員の顔の見える料理とか、美味すぎる味がどうかと思うとか、あまり手を加えすぎない方が好みになっていくのは、どうも創作の変遷と似ているんです。美術や音楽など他のジャンルでも、キャリアを重ねるにつれて、技巧的に全てをコントロールするより、受け手に結論を任せるように余白を持たせる作風になっていく、あるいは大胆な飛躍や省略によって難解になっていく、そういう変化をたどる人が一定数います。ま、年齢的なこともあると思いますけど。 これは歳を取って薄味が好きになった、という話とは少し違います。対象への解像度が上がってしまったんですね。よく見えるから余計なものを削りたくなるし、対象のもっと深い部分へ分け入っていきたくなります。今まで見えてなかった魅力がわかってくるんですね。 なにかと組み合わせる素材の一つでしかなかった平凡な野菜を、そのまま味わってみるというのもそうです。例えば長ネギをそのまま炭火でじっくりと焼いて塩で食べるとか。ネギらしい香味を残しつつ、とろっとした食感と甘み、「え、こんな感じにもなれるのキミは」と驚きます。キャベツを大ぶりに切って、そのまま蒸すだけとか。好きなオイルと塩や醤油、胡麻ダレなどでいただきます。日本酒やワインにも合う。「いやいや、たいしたもんですな」とキャベツを褒めつつ、一人頷きながら食べます。そう、こういう料理はどちらかと言うと一人で作って食べることが多いです。家族と食卓を囲む時はこういうものはあまり作りません。子供受けしないというのもありますが、やはり一人で食材と向き合いたいんでしょう。 ファームトゥーテーブル(Farm to table)という言葉があります。農場(生産者)とテーブル(消費者、家庭やレストラン)との距離を縮めようとする運動で、環境への配慮や食の安全などのエシカルな価値も含みます。アメリカの西海岸から始まった運動で、今は世界に広がっている考えです。日本にもファームトゥーテーブルをコンセプトにしたレストランは多数あります。地産地消に近いです。 ニューヨークの「ブルーヒル」という有名なレストランがあります。メディアで紹介されているのを見た人もあるでしょう。街から車で1時間ほどの距離にある、都会の喧騒が嘘のような農場のレストランです。そこで最初に出てくるのが、農場から取ってきたままの野菜たちです。とってもおしゃれに盛り付け、いやむしろ美術品の展示のような美しさで登場します。一つひとつ説明を聞き、当然何もつけずに味わいます。野菜そのままの姿で、土の香りをアクセントに。食べた人は感動したり、深く頷いたりしています。 本当に美味いのかよ、と思う気持ちも分かります。こちとらマヨキューでいいっすわ。わかります。ただ、こういう所では、美味しいの物差しを少し変えなくては正しい評価はできません。というよりも、「あなたが当たり前に持っている美味しいの物差しを考えなおしてみませんか」と問いかけているんです。 車窓から見える景色がビルから住宅地になり、森へと変わっていく。車を降りると空気が違うことがわかるでしょう。畑や果樹園、路肩に植えられた草花を見ながら歩いていくと、重厚な石造りのレストランが姿を現します。ワクワクして、気持ちが昂ってきます。テーブルへ向かうまでのプロセスも演出であり、最初に出てくる野菜の味付けになるのです。 ウンチクを聞いて美味しいと感じているだけ、情報を食べているだけ、と言うかもしれません。確かにそういう側面はあるでしょう。でも真剣に対象(食べ物)に向き合う態度を整えているのだと、私は思っています。解像度を高めるための儀式のようなものです。ブルーヒルファームの野菜が入ったハンバーガーを街で買って食べたとしても「お、このバーガーの野菜、なんか違うぞ」と思う人はいないと思います。そこまでの差はない。でもわざわざ数ヶ月も予約待ちをして、高いお金を出して、こういう所にくることで、野菜に出会い直すのです。普段は感じることのできなかった野菜の深部に分け入る体験ができる。 「こ、これがニンジン……」という体験。繰り返しますが、これは特別に美味しいニンジンなのではなく、ニンジンが本来持っている全ニンジン的なるものを受け取るということです。受け取るためには、それなりの態度と心構えが必要だということです。 これは宗教的体験とも似ています。寺や神社、教会、モスクなどは、威厳のある建築物で内部は荘厳、静謐な空気に満たされています。全ては神を感じるためです。祈りの空間は、人間を超えた存在を感じるために、畏敬の念を起こさせるように、デザインされています。日常生活では使っていなかった感性を開く必要があるからです。物差しを変えると言ってもいいかもしれません。日常的な解像度では、神を感じることはできません。その場の力を借りて、受け取るために自分をそこにチューニングしないといけない。 ■ 美味しいの物差しを変える 美味しいの物差しを変えるというのは、二つの側面があります。食にまつわる情報や物語の取り込み方、ファームトゥーテーブルならその価値観を美味しいに組みこむこと。もう一つは味の解像度を上げること。物差しの目盛りがmmだったのを、μmに近づけること。もちろん毎日こんなに感性を鋭く生活することは難しいです。だからこそ、一人の時になのかもしれません。今日はちょっと、タマネギの真実に近づいてみようかと。なんならキャンドルなんか立てるのもいいです、自宅のテーブルに宗教的空間の味付けをして、オーブンで焼いただけの丸のタマネギにオリーブオイルとビネガーを垂らし、ナイフとフォークで儀式のように皮を剥いていく。湯気と甘い香りと共に、透き通った果肉が姿を現す。自分の中にあるタマネギの知識を一度捨てて、初めて出会ったかのように味わうのです。どうです? ちょっとだけ姿を見せてくれたんじゃありませんか。タマネギの神様が。 ところで、見てきたように書いてますが、私はブルーヒルに行ったことはありません。野菜に出会うために、必ずしもブルーヒルに行く必要はありません。いや行ってみたいですけどね。ご近所のスーパーで買った野菜で構いません。オーガニックや無農薬でなくてもいいんです。これが本当の野菜だ、なんて言う人を私は疑います。その野菜に真実を見つけることができるかは、自分次第です。適当に切り刻んで三食焼きそばにぶち込む日もあれば、大自然の神秘を前にするように向き合う時があってもいいのではないでしょうか。 私は、劇場というのは寺や教会のようなものだと思っています。劇が始まる前の静かな客席は、祈りのようなものが感じられて好きです。作品としても、畏敬の念を呼び起こすような一瞬が立ち上がるような、そういうものを作りたい。でもそれは日常的な感覚では語れないものです。表現しようとすればするほど離れていくような、コントロールの難しいものです。開演前のあの時間は、きっとお客さんが自分をチューニングしているのでしょうね。そうすることで解像度を上げ、より多くのものを受け取ろうとしている。すばらしいことです。芸術作品というのは、受け手からの歩み寄りが必要です。教会でただ座っているだけでは、神様は声をかけてくれません。 とはいえ、ただ座っているだけで面白いものを作れ、一口目からみんなが美味しいというものを作れ、そういう要望は強く、そういうものが席巻しているのも事実です。でもわざわざ教会に来てくれる人たちは、そういうものを望んでいるだろうか、といつも悩みます。そんなことを考えながら、一人野菜を焼いたり蒸したりしているのです。 箸を置き、呟きます。 「うん、やっぱりキミは素晴らしい。そのままでいいんだ」 ピーター・ブルックがこんなことを書いていたのを思い出します。「そこに一人の人間が立ち、そしてそれを見つめるもう一人の人間がいる。演劇が成立するために、他に何が必要だろう」 ■ プロフィール 前川知大(マエカワトモヒロ) 1974年、新潟県生まれ。劇作家、演出家。目に見えないものと人間との関わりや、日常の裏側にある世界からの人間の心理を描く。2003年にイキウメを旗揚げ。これまでの作品に「人魂を届けに」「獣の柱」「関数ドミノ」「天の敵」「太陽」「散歩する侵略者」など。2024年読売演劇大賞で最優秀作品賞、優秀演出家賞を受賞。