天才ながら“無名”の漆工「三砂良哉」初の大規模展 大阪・逸翁美術館で 小林一三注文の薄茶器なども
大正から昭和にかけて関西で活躍した漆工、三砂良哉(みさご・りょうさい)の名品を紹介する特別展「漆芸礼讃―漆工・三砂良哉―」が大阪府池田市の逸翁美術館で開かれている。天才的な漆芸技術を持ちながら、一般的に高い評価を得ることなく、事実上「無名」である三砂の作品と人生に焦点を当てた、初めての大規模な展覧会。11月24日(日)まで。 【写真】すてきなメロディーが聞こえてくるよう…宝塚歌劇ゆかりの薄茶器 逸翁(小林一三)が三砂良哉に注文 三砂は明治20(1887)年、西宮で代々酒造業を生業としていた家に生まれ、14歳で蒔絵師に弟子入りしたとみられている。その後「大阪府工芸協会」に所属、展覧会への出品を重ね、昭和4(1929)年、阪急東宝グループの創始者、小林一三(雅号・逸翁[いつおう])が立ち上げた在阪の工芸作家らによる「阪急工美会」の幹事となった。卓越した技術力に加え、創造性やデザイン力にも優れていた三砂は、逸翁や武者小路千家の茶人らに好まれ、多数の傑作を生み出した。逸翁をして「まれに見る名人だと思っている。漆をいじらせておけば第一人者」「三砂さんを友人の1人として持つのが嬉しい」と言わしめた漆工だが、現在では、その名を知る人はほとんどおらず、生涯はなぞに包まれている。 その背景について、逸翁美術館の宮井肖佳・主任学芸員は「工芸作家が名を残すには、展覧会やコンクールに出品することだが、三砂は戦前、『大阪市美術展覧会』に出展、受賞後は、阪急工美会への出品を除き、表立った活動が見出せなくなっていった。さらに弟子を取らず、子もなかったため、後世に伝える人がいなかった」とひもとく。三砂が編み出した技法を受け継いだ者はおらず、小林一三ゆかりの同館と武者小路家などに作品が残されているのみである。 今展の開催にあたって、宮井学芸員は三砂の母方親族の家を取材。そこにあった扁額に三砂自身が書いたと思われる、三砂の師とおぼしき蒔絵師の名前を見つけたが、その名についてもほかに記録が見出せず、実在したかもはっきりしないという。同学芸員は「三砂について、調べれば調べるほど分からなくなった感がある」と、手がかりの少なさを惜しむ。 展覧会は5章立てで、計約150点を展示。第1章は薄茶用の抹茶を入れる薄茶器を特集、冒頭は、螺鈿(らでん[貝殻を文様に切り取って、器物にはめこんだり、はりつけたりする技法])や描割(かきわり[蒔絵をする際、線を表す箇所の地塗り部分を塗り残して金粉を蒔く技法])などのテクニックを駆使した、きらびやかな作品がずらりと並ぶ。 注目すべきは、合口部分に五線譜と音符を金の蒔絵で施した「黒地歌劇雛祭楽譜蒔絵棗 逸翁好(くろじかげきひなまつりがくふまきえなつめ いつおうごのみ)」(1933年)。楽譜は、小林一三が制作した宝塚歌劇「雛祭」劇中歌の「色づくし」の一節で、同歌劇20周年を記念した茶会で逸翁が用いたものの、客は薄茶器に込められた意図を読み取れず、逸翁が残念がったというエピソードが残る。逸翁が三砂に制作を依頼した際の手描き図面やその返信も現存しているという。 逸翁と三砂の興味深いやり取りは、第2章「香合」からも見て取れる。小林はある時、外遊時に購入したものの、その後破損した扇子の親骨を三砂に渡し、「これを何とかしてほしい」と難しいオーダーをした。三砂は悩んだ末、親骨を補修して香合の蓋とし、扇の形に合わせて作った身の部分に精妙な蒔絵を施した(「スペイン扇子山水文蒔絵香合(スペインせんすさんすいもんまきえこうごう)」1951年)。逸翁はその素晴らしい出来栄えに驚き、喜んだという。 そのほか各種茶道具や菓子器、盆や硯箱などの優品、文台や銘々皿など良哉が愛用した品々も公開。 宮井学芸員は「作品を一堂に見てもらうことで、逸翁と武者小路千家の好みの違いを実感してもらえると思う。茶道について詳しくない人も、美しい工芸として作品を楽しんでほしい。多くの人に三砂良哉という漆工がいたことを知ってもらえたら」と話している。
ラジオ関西