二十歳のとき、何をしていたか?/光石研 仕事よりもシティボーイライフが大事。そんな光石さんはいかにして、俳優業と向き合うことになったのか?
「ポパイのせい!」で、俳優業そっちのけの日々。
いきなり個人的な話で大変に恐縮だが、僕は二十歳のとき、とある大学の映画サークルに入っていて、夏になると自主映画を一般公募して映画祭を開催していた。そのときの記憶でとりわけ印象に残っているのが、映画監督や映画研究者に交じって審査員として参加してくださった俳優の光石研さんだ。出品作と真摯に向き合いコメントする姿もさることながら、打ち上げにまで参加し未来の映画人たちと朗らかに語り合う光石さんを見て、「ああ、この方は心の底から映画を愛しているんだなぁ」といたく感激したものだ。では、そんな光石さん自身の二十歳の頃はどうだったのだろうか。 【取材メモ】光石さんの「ポパイのせい!」という発言はリップ・サービスではなさそうだ。 「僕は17歳のときに『博多っ子純情』という映画で俳優デビューしているんですね。そのときのスタッフは撮影が終わってからもとっても丁寧に僕のことをケアしてくれて、東京の事務所を紹介してくれたんです。それで上京したのが19歳のとき。だから、二十歳のときは東京で暮らし始めて2年目の頃ですね」 晴れて俳優業に邁進するのかと思いきや、どうやら事情は違うらしい。「いやー、なんかウツツをぬかしていました(笑)」と光石さんは苦笑い。 「要するに、俳優業以外のことにばっかり目が向いていました。やっぱり田舎から出てきた少年にとって、東京は刺激が多いわけですよ。だから、レコード屋をめぐったり、ライブハウスに行ったり、あとは草野球チームを作って野球したり。そのときのユニフォームも僕がデザインしたんですが、そういうことが楽しかったんですよね。俳優になれるかどうかもわからないまま、上京していたら違ったかもしれませんが、もうデビューしてましたし、仕事もそれなりにあったものですから、結局苦労してないんですよ」 〝映画を愛する光石さん〟の原型が垣間見えるのかと思いきや、まさかの答え。と、光石さんは声のボリュームを一段階あげてこう笑う。「全部、ポパイのせいですよ!」。ど、どういうこと!? 「ポパイが創刊されたのは中学生の頃だったと思うんですけど、僕らの世代にとっては衝撃だったんですよ。田舎の少年はそこで紹介されているライフスタイルを『そのとおりだよな!』って真に受けてしまって、とにかく『かっこよくいなきゃいけない』ってことを刷り込まれたんです。こんな洋服を着て、こんな部屋に住んで、こんな本を読んで、こんなチャリンコに乗って……みたいな。え、シティボーイだったかって? いやいやただ憧れていただけなんですが(笑)。東京ではそういうライフスタイルを実践できたので、そっちにばかり興味が行ってしまったんです。でも、俳優としっかり向き合ってないことには、不安はなかったですね。なんでだろう……。やっぱり若かったんでしょうね。なんとなくは仕事もありましたし。住んでいたのは、4畳半風呂なしのアパートでしたけど。そこにレコードを並べたり、ポパイっぽくするのが楽しかったんですよね」 光石さんのライフスタイルが素敵なのは知っていたけど、その源流にポパイがあったのは……なんかすみません。とはいえ、俳優業のほうでも見逃しちゃならない活動はちゃんと残している。なんせ二十歳のとき、日本映画の歴史にその名を刻む傑作『セーラー服と機関銃』に出演しているのだから。 「あー、たしかにあの作品は二十歳の夏に撮影しましたね。僕は主演を務めた薬師丸ひろ子さんの同級生3人組を、柳沢慎吾さん、岡竜也さんと演じたのですが、最初にいただいた脚本では、めちゃくちゃいい役だったんですよ。薬師丸さんのうしろについて、映画の半分以上の時間は出ているような。だけど、出来上がった作品を観たらほとんどカットされていました(笑)。僕らはフェンシング部という設定で、フェンシングのシーンもたくさん撮影したのですが、1ミリも使われてませんでしたから」