「昭和は過ぎ去り、ストリップの時代も終わった」…二代目・一条さゆりを「引退」に追い込んだ『時代の変化』
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第132回 『男性が急に近づいてきて…『伝説のストリッパー・一条さゆり』を演じた女性の身に起きたハプニング』より続く
ストリップ時代の斜陽化
一条の引退から半世紀、死去から4半世紀となった。 かつて全国で300を超えたストリップ劇場は20を切っている。中国地方唯一の広島第一劇場も21年5月、46年の歴史に幕を下ろした。 新型コロナウイルスが猛威をふるう2020年12月、2代目が大和ミュージック劇場(神奈川県)での公演を最後に舞台から降りた。ストリップの世界から、「一条さゆり」が姿を消した。2代目は言う。 「初代には申し訳ない気持ちがあります。期待されたほど人気者になれなかったから」 個人の資質とは関係ないだろう。もはやストリップの時代ではなかったのだ。 平成から令和に移り、昭和はすっかり遠くなった。
約5万体の骨から仏像を作る
一条に法名を授けた戸次が住職を務める南溟寺には、「釋優利」と墨書された位牌と彼女のバッグ、そして、ひすいの数珠のみが残っている。 生前、交流のあった加藤詩子は一条の死後、姉から頭骨の一部を預かり、一心寺(大阪市天王寺区)に納骨した。 1185(文治元)年に法然が開いた浄土宗の寺である。特徴の1つは、納められた遺骨で「お骨仏」と呼ばれる座像を造ることだ。 幕末から明治にかけ、大阪には地方から奉公に来る次男、三男が増えた。そうした者たちの一部は自分の住む街で先祖供養を希望した。 「一心寺なら宗派を問わない」。そう聞いた人々が、故郷の菩提寺から分けてもらった遺骨をこの寺に納めるようになった。 1887(明治20)年、時の住職、顕秀はそうした約5万体の骨を粉末にし、セメントと混ぜ合わせて阿弥陀如来像を造った。その後、「お骨仏」造りは定期化する。 第2次大戦の空襲でそれまでの6体が亡失した。戦後、その破片に約22万体の骨を加え、第7期の骨仏が完成する。以来、ほぼ10年に1体ずつ阿弥陀如来像が造られてきた。都市化、核家族化が進み、墓を持たない人が増えた。寺がそうした人々の受け皿になっている。 『ストリッパーとして“昭和の男社会”を生き抜き、「嘘」と「優しさ」で数多の人々を魅了してきた『“踊る菩薩” 一条さゆり』の最期』へ続く
小倉 孝保(ノンフィクション作家)