もみ消された!? 自衛隊による史上初の災害派遣「人命第一」が処分の対象に なんで?
警察予備隊創設時のトップ、吉田首相の思惑
今でこそ当たり前になった自衛隊による災害派遣ですが、その歴史は意外と古く、始まりは元組織である警察予備隊の時代まで遡ることができます。 【災害派遣でも頼りに】自衛隊最大ヘリの訓練をムービーで見る とはいえ、最初はやはり試行錯誤が続いたようです。警察予備隊が創設された際、当時の総理大臣であった吉田 茂氏は、警察予備隊が国民からの支持を受けるためには、災害派遣は必要であると考えていました。 また彼の中には、警察予備隊は旧日本軍とは異なるということを国民に対して示す必要があるという考えもあったようです。その結果、警察予備隊では災害派遣を積極的に行っていこうという方針でした。これは、吉田 茂氏による「災害派遣は地方民の利益」という言葉を具現化したもので、政治的にも推進しようとする1つの大きな理由になっていたようです。 また、一説によると災害派遣には警察予備隊の主任務である「治安維持」も含まれるという見方もあったとか。こういった背景から、吉田 茂氏は大規模災害が起きた際には、警察予備隊を派遣する考えは当初から根底にあった模様です。 加えて、実はもう1つ警察予備隊が災害派遣を行う大きな理由がありました。それが「シビリアンコントロールのテスト」というもの。設置の根拠となっていた警察予備隊令には「内閣総理大臣の命を受け行動する」という治安出動のルールがありました。その一方で、災害派遣に関するルールはなかったため、災害派遣にも「内閣総理大臣の命を受けて行動する」というルールを適用しようとした模様です。 つまり、戦前にあった軍による独断を許さず、戦後の新体制となった警察予備隊のシビリアンコントロールが正常に機能するのかをテストしようとしていたのです。
初の救援活動、なぜか処分の対象に
こうしたなか、1951(昭和26)年7月11日、京都府南桑田郡(現:亀岡市及び大阪府高槻市)のため池「平和池」が、活発な梅雨前線に伴う豪雨で決壊。この影響で桂川が氾濫、下流にあった集落は、決壊から20分ほどで鉄砲水に襲われ、79名の住民が命を落としました。 これを受け、同月14日、被災地からの救援要請を受けた警察予備隊の福知山駐屯部隊が動きます。出動したのは、第504建設大隊隷下の2個建設中隊。これは今でいう施設中隊で、いわゆる工兵部隊になります。彼らは要請を受けて現場に向かい、救援活動を開始しました。 地元住民は救援で駆け付けてくれた警察予備隊の福知山部隊を歓迎します。そのため、この派遣が実質的に警察予備隊として初の災害派遣になるはずでした。しかし、報告を受けた警察予備隊本部は、当時の部隊長を処分します。 なぜ、地元住民からも喜ばれた活動が処分の対象になったのか。それは、派遣が部隊長の独断であり、手続きを得ない独自判断の越権行動とみなされたからです。すなわち、シビリアンコントロールの観点から、総理大臣に指示を仰がなかったという点が、問題視されたと言えるでしょう。 ただ、この処分が同年10月に発生した「ルース台風」への災害救援にも影響を及ぼすことになってしまいます。