文豪・志賀直哉と里見弴は「プラトニックな恋愛関係」にあった!?
明治期にも「男同士の恋」は広く行われていたが、西洋化や同性への性的暴行事件などによって徐々にネガティブに見られるようになっていった。明治期の学習院では学生同士の同性愛が流行しており、文豪の志賀直哉(しがなおや)と里見弴(さとみとん)も、プラトニックな恋愛関係にあったと言われる。どのような間柄だったのだろうか? ■同性愛がさかんだった明治期の学習院 明治時代になっても、「男同士の恋」は女性との関係と並列して進めても問題ないものだという、古くからの認識は引き継がれていたようです。しかし、明治という「文明開化の世」ともなれば、同性愛を禁忌とする西洋諸国の文化・風習の影響が出てきました。 また明治後期の東京では、少年たちに性的暴行を働いて回った「白袴隊(びゃっこたい)」などの存在もあって、世間の人々に、(男性)同性愛に対し、明治以前にはなかったタイプのネガティブな眼差しが生まれるようになったと考えられます。 今回は、志賀直哉と里見弴という、明治・大正期の「文豪」たちの「男同士の恋」のエピソードをご紹介しましょう。里見弴は、『愛は惜しみなく奪ふ』という著作や心中事件で有名な有島武郎(ありしまたけお)の弟にあたります。 母方にあたる山内家の養子になったので、本名は山内英夫(やまうちひでお)ですが、5歳年上の志賀直哉との出会いは、有島武郎、生馬(いくま)といった実家の兄たちの紹介によるもので、彼らは全員、学習院に通うお坊っちゃまたちでした。 里見は身長152センチと当時でも小柄で、一重の大きな目が印象的な可愛らしい風貌でした。一方、志賀直哉は170センチ程度はあったようで、陸上部で鍛えあげたワイルドな美青年でした。体格差はあるものの、お似合いのカップルだったといえるでしょう。 当時の学習院は、かなり同性愛がさかんだったといえる場所で、そうした文化風土も手伝って、里見と志賀が「友人」そして「恋人」としても惹かれ合っているという、お互いの気持ちに気づくのに時間はかからなかったようです。 ■肉体関係になかったから、幸せだった 里見弴は、「十二、三の時分、一時、私は慥(たしか)に志賀君に惚れていた」と、随筆『志賀君との交友記』において直球の回想をしていますし、志賀直哉も、「男同士の恋で、彼はカナリ苦しむでゐる時だつた」と、自身を「志賀」と実名で登場させた未完の私小説『或る旅行記 青木と志賀と、及び其周囲。』において、認めています。志賀は対象をボカしていますが、お相手は里見でしょう。 里見弴は、大正2年(1913年)ごろ、『君と私と』というタイトルで、少年時代からの志賀直哉への恋情を語った私小説を『白樺』に連載していたこともあります。連載開始当時、志賀直哉は作品に好意的な感想を述べていたものの、ある時点で、内容面での不服を里見に伝えたらしく、作品は未完で終わってしまいました。詳細はついに明かされぬままで、永遠の謎というしかないでしょう。 また、彼らの関係もある意味、未完成でした。心はともかく、身体ではついに結ばれることがなかったのです。後年の里見は、瀬戸内晴美(のちの寂聴/じゃくちょう)のインタビューに応え、「(志賀とは)肉体的な関係にならなかったのを、大変に幸せだった」とか、「ほれていれば、機会さえあれば、そうなっていそうなところだけれども、いいあんばいに何もなかったね」などと述べています(瀬戸内寂聴『生きた書いた愛した 対談・日本文学よもやま話』)。 このとき、里見は「それ(=肉体関係まである男性同性愛)は危険だよ」とも言っているのです。里見はその後も、大人の男女関係をテーマにした作品で才能を開花させ、数々の名作を残たので、たしかに志賀直哉の「ちご(稚児)さん」としての人生では、里見の才能は十分に開花できなかった可能性はありますね。 しかし、少年時代、志賀以外の男性とは肉体関係があった里見ですから、志賀ともねんごろになり、彼の「ちごさん」としての内面を吐露した小説も書いていてほしかった……と思う気持ちが筆者個人としては捨てられません。 画像…「日本文学アルバム 第12 亀井勝一郎, 野田宇太郎, 臼井吉見 編 筑摩書房 1955」出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹