ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (65) 外山脩
それはそれとして 前記のブラ拓三移住地の内、バストスは一九二八年から入植が始まった。四年後の一九三二年末には、次の様なところまで計画が進捗していた。 中心地に一二一㌶の市街地。公共施設地区、商店街、住宅地を造成中。 移住地内を幅一五~二〇㍍の道路が貫通。道路の総延長は一〇㌔。市街地の街路では夜は電灯がついた。 病院、小学校、製材所、煉瓦工場、精米所、精綿工場、製糸(生糸)工場、発電所などの施設がつくられた。 電話も一部では通じた。 といっても実際は、道路は土道、建物も病院や学校を除いては、板を主とした木造の仮のそれであり、町全体が未だ雑然としていた。 移住地内の居住者(含、非農業)は五百九十家族、三、一〇〇人。 農業者は四百九十三家族。一家族は一区画=二四・二㌶=の土地を所有。 この時点で、なお四〇七区画を分譲中。 農業者の所有地面積は合計一万一、九三〇㌶。内、開拓面積は六、二〇〇㌶。 主作物は綿で年間一四万七、七〇〇アローバを収穫。(1アローバ=約15㎏) 当初はカフェーを植えていたが、一九二九年以来、国際相場の低迷が続き、ブラジル政府も新植を禁止する方向へ動いていた。 ために途中から綿に切り換えた。土地がカフェーには不向きな所が多いという事情もあった。 チエテ、トゥレス・バーラスも似た形態の移住地造りが進められていた。 バストスの翌年に発足したチエテでは、二〇万円を投じてチエテ河に鉄橋を架設するという思い切ったことまでした。貨物輸送の便のためもあったが、地元社会への奉仕も兼ねていた。 トゥレス・バーラスは一九三二年から分譲を開始した。 これら移住地は、現実には様々な問題を抱えていたが、初めから市街地を中心に、その周囲に農場地帯が広がり、商工業・文化面の施設も備えた町づくりを計画していた。 計画がすべて完成すれば、これら移住地は、規模だけでなく内容も、それまでの邦人の入植地の概念を一新するものになる筈だった。 例えば、病院と学校(日本語による小学校)は、日本の都市部のそれと比較しても、遜色ないものが建設された。 学校は、ポルトガル語のそれも開校され、生徒は両方へ通った。 これ以前の入植地は(イグアッペを除いて)病院はなく、学校はあっても小規模な寺子屋式の教室だった。 このブラ拓式の移住地が、もっと増えて行くことが期待された。そうなれば、日系社会は大きく変貌するであろう。それは決して夢物語ではなかった。 ブラ拓の背後にある日本──当時の大日本帝国──政府が本気になれば、不可能ではない筈だった。 ところで、このブラ拓の顔だったのが、宮坂国人である。 一九三一年(昭6)、日本で海外移住組合連合会の首脳部の人事異動があり、その時専務理事となり、同時にブラ拓の最高責任者として赴任してきたのが宮坂であった。 長野県人で一八八九(明22)年の生まれだった。 神戸高商を卒業後、東洋移民会社に入社した。「海外雄飛こそ日本人の進むべき道。拓殖事業は国づくりに似ている。最も男らしい仕事」と血を沸かせていた。男が男であった時代の人生の選び方の一つであった。 入社時、ブラジル勤務が志望だったが、会社の都合でペルーへ赴任した。仕事は、大農場で労務者として働く移民の世話だった。 七年後、帰国。この間、東洋移民会社は同業者と合併して海興となっていた。 宮坂は調査部長になった。もっとも命じられた仕事は、フィリピンで苦況に陥っている日本移民(実際は出稼ぎ)の救済であった。彼らは当初、道路建設の人夫として働いていたが──日本の小説家角田房子著『宮坂国人伝』によると──労働条件の非人間性と疫病が原因で、四万人の内の半数が死んだという。「半数」という表現には、疑問を感ずるが……。 生き残った人々はマニラ麻の栽培に転じた。が、これも経営的に行き詰まっていた。宮坂は現地調査を行い「この窮境を脱するためには六〇〇万円の資金が必要」と判断、本社に戻ってその旨、意見具申をした。が、海興などに手に負える金額ではなく、拒絶されてしまう。