「玉音放送 録音盤探せ」元近衛兵が終戦直前秘話/大阪
「玉音放送 録音盤探せ」元近衛兵が終戦直前秘話/大阪 THEPAGE大阪
福島区歴史研究会(太田勝義会長)がこのほど、大阪市福島区の区民センターで戦後70年の記念講演会(福島区役所、市立福島図書館との共催)を開き、2人のシニア区民が自身の戦争体験を報告した。終戦を告げる玉音放送にまつわる秘話や、福島区民を襲った空爆や銃撃体験などが明かされ、参加者が真剣な表情で聞き入っていた。
15日午前3時まで録音盤探すも発見できず
第1部でビデオ「大阪大空襲/焼きつくされた大阪の街」を上映。第2部では岡和雄さんが「秘話・終戦の録音盤にまつわる近衛兵の思い出」、内藤真治さんが「中学生の時に終戦を迎えて」と題して報告した。 岡さんは1922年生まれ。軍国少年として育ち、43年、宮城を護衛する近衛師団に入隊した。戦局が悪化する中、45年8月14日、御前会議で連合軍によるポツダム宣言の受諾が決定。昭和天皇が終戦の詔勅を朗読してレコード盤に録音させ、ラジオで放送して詔勅の内容を国民に知らせることとなった。 宣言受諾に異議を唱える軍部の一部幹部が、徹底抗戦を計画。宮城内で近衛師団を動かして録音盤を奪おうとしたが、失敗に終わった。「宮城事件」だ。岡さんはこの時、近衛師団の一員として宮城内にいた。 「我々近衛師団の兵隊に『録音盤を探せ』という指令が出ました。14日午後11時から15日午前3時ごろまで、録音盤を探し回ったが見つからなかった。録音盤が我々の手に落ちなかったことで、15日が終戦の日になった。もしもあの時、我々が録音盤を発見していたら、まだまだ戦争が続いていたのではないか」(岡さん) 岡さんは歴史が動転しかねない緊迫の局面にいたわけだ。
ガード下の壁面に今も残る銃撃の弾痕
内藤さんは31年生まれ。私立工業学校在学中、学徒動員で工場へ派遣され、飛行機部品の製造に従事した。 「物資が不足してジュラルミンなどの正規の材料がなくなり、尾翼の部品などは木材を加工して代用していた。子ども心にもこれで大丈夫なのかと心配になった。半面、カンナやノミの使い方を覚えられ、生涯役立っている」(内藤さん) 米機襲来の警戒警報が出ると帰宅することになるが、電車が動かない。 「線路伝いに帰る途中、米軍の艦載機が攻撃してくる。急いで草むらに逃げ込んで、じっと隠れていました。焼夷弾より威力が強い焼夷爆弾が隣家を直撃したことがあった。近くに風呂屋があったので、大人たちに声をかけ、バケツリレーで必死に消火を試みました」(内藤さん) 福島区内のJR東海道線のガード下の壁面に、米軍艦載機による銃撃の弾痕が今も残っている。銃撃現場にいた内藤さんはスライドで示しながら説明を加える。 「最初は私を狙ってきたと思い、必死に逃げました。米軍機が去った後、ガード付近を見たら列車が停まっていたので、列車を攻撃しようとしていたことが分かりました」(内藤さん) 大人にも子どもにも、爆撃や銃撃の危機が満ちていた。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)