米騒動は「暴動」だったのか? 1918年夏の仙台の米騒動を考える
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米騒動は「暴動」だったのか? 1918年(大正7年)夏に起きた、仙台の米騒動について、長年研究している人がいます。近・現代史を専門とする在野の研究者、中川正人さん(77)。米価の暴騰をきっかけに全国各地に広がった米騒動は、大勢の群集が暴徒化し、「焼き打ち」や「打ちこわし」があったという印象がありますが、中川さんは「仙台の米騒動では過激な行動は例外でした。『暴動』と呼ぶのはふさわしくありません。米価の引き下げ交渉を軸とする経済闘争だったのでは」と考えています。
米騒動は富山県に端を発し、7月下旬から9月中旬までの間、全国各地(1道道3府37県の計369か所)に広がりました。参加者は全国で数百万人とも言われています。米価の高騰を狙った「売り惜しみ」への怒りは激しく、地域によっては放火や暴行などに発展し、警察や軍隊が出動するケースもあったほどでした。検挙者は8000人以上に上りました。 中川さんは元高校教師で、1975年(昭和50年)に発刊された宮城県議会史の執筆委員を務めたほか、2015年まで仙台市史や多賀城市史の編纂にかかわってきました。仙台の米騒動について最初に調べたのは、宮城県議会史の執筆に携わったときでした。「当時、参考になる資料と言えば、東北大の学生グループが発表したガリ版刷りの報告書と地元紙、河北新報の記事ぐらいでした。東北大の報告書は、当時、まだ生存していた米騒動の参加者を集めて座談会を開くなど、非常に詳細なものです」 中川さんによると、仙台の米騒動にはのべ3000人が参加し、8月15日から17日にかけて起きました。先行地での不穏な空気を反映するかのように、8月11日には400人が参加して「廉米払下げ請願市民大会」が開かれています。15日夜には市内各所に市民が集まり、市中に向けた行進が発生。次第に参加者が増え、米穀商、酒味噌醤油の販売業者、高利貸、米穀取引所などに押しかけました。米価引き下げを要求し、困窮者救済のための寄付等を呼び掛けました。一部、「無分別な行動(破壊・略奪・暴行・放火など)が存在し」、16日には、高利貸宅を放火するなど過激な行動も見られました。 「仙台の米騒動では、なぜか女性の姿がどこにも見られません。米の価格は暮らしに直接かかわることであり、他の地域では数は少なくとも、女性の動きがうかがえます。いかに深夜にわたる騒動でも、仙台の女性たちが何の役割も果たさなかったことなどあるのでしょうか。また、米騒動の結果、仙台では132人(全国8167人)が検挙されましたが、なぜか18歳未満の若者が一人もいないのです」 統計上、若者たちが含まれていないのは、若い世代の将来を考えて放免したのではないか、と中川さんは考えています。米騒動に関する仙台弁護士会の見解の中に「妥当な判断だった」と賛意を示すようなくだりがあることからの推測です。「各種資料からは見えない点も含めて、米騒動の全体像をしっかり描く必要があります」 では米騒動が「暴動」だったかどうかはどのように判断すればいいのでしょう。中川さんは「地域の歴史は、単に専門家に任せるのではなく、市民一人一人が素朴な疑問を抱き、解明することで、継承される」と考えています。「仙台の米騒動」についても「何があったのかを細かく調査したうえで判断する必要があります。米騒動がきっかけとなって大正デモクラシーにつながったと考える研究者もいますが、資料を見る限り事情は違うようだし、単なる暴動が新しい世の中につながったとも考えにくい」と話しています。 米騒動で起訴された人々の支援にかかわった宮城出身の政治家、澤来太郎や宮城出身の弁護士、布施辰治らは「今回の騒擾は政党政派になんら関係なく、また決して偶然に突発したる無意義なるものにあらず、政府が米価調節を行わんがためとらんとせし、いわゆる最後の手段、これをもって国民が政府の実行を待ちきれず」(澤)、「本件公訴事実の群集状態を見ても、なおかつ騒擾の程度に至っているかどうかは大なる疑問なり」(布施)などと述べています。 中川さんは澤らの主張に共感を示すとともに、江戸時代の百姓一揆との共通点を指摘しています。「百姓一揆に関する研究が進み、一揆の手法として、基本的に破壊、流血は避けるという約束事があったことが分かっています。仙台の米騒動にはそれが受け継がれているのかもしれません。『民本主義』で知られる宮城県大崎市出身の吉野作造が米騒動についてどう考えていたのか、調べてみたいと思っています」と研究意欲を一層、募らせています。 佐藤和文(メディアプロジェクト仙台)