NHK新朝ドラ『マッサン』のモデル 竹鶴政孝とリタ夫妻の「ちょっといい話」
政孝雌伏の時代 ~やっと日曜日が安息日になりました~
大正10年11月、政孝が3年ぶりに帰った故国は、大戦景気に沸いた留学前とは様変わりしていました。摂津酒造のウイスキー醸造計画も頓挫し、政孝は退社を決意。桃山中学に教師の職を得、リタも子どもたちに英語やピアノを教えて家計を支えました。政孝の雌伏の時代、リタは「やっと日曜日が安息日になりました」と周囲を笑わせたといいます。 その後、政孝は旧知の鳥井信治郎に請われ、寿屋(現サントリー)に入社。京都・山崎に新工場を立ち上げ、試行錯誤の末、昭和4年に国産初の本格ウイスキーを完成させました。そして5年後、寿屋から独立した政孝は、「ウイスキーづくりの理想的環境」と着目していた北海道余市に、大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)を設立します。
故郷スコットランドを想わせる余市 ~鳴り響く「リタの鐘」~
余市への移住を人一倍喜んだのはリタでした。三方に延びるなだらかな丘陵、朝夕の山裾にかかる靄。サケが帰る川やニシンの寄せる海……故郷のスコットランドとよく似た風景が、目の前に広がっていました。 が、政孝の事業は苦戦続き。ウイスキーの熟成を待つ間の「つなぎ」として発売したリンゴジュースがふるわず、赤字会社の評判が蔓延しました。おりしもニシン漁が不振をきわめ、余市の町も活気を失いつつあった頃。リタは時刻を告げる鐘を鳴らそうと思い立ちます。朝8時と昼の12時、そして終業時間の午後5時。カウベルが鳴る毎日3回の時報は、後に町の人々から「リタの鐘」と呼ばれるようになりました。 悲願のニッカウヰスキー第1号を発売した翌年、太平洋戦争が勃発。日本国籍を取得していたリタも、町を歩けば罵声を浴び、ラジオのアンテナを暗号発信機と疑われて訊問を受けます。小樽や札幌の教会を訪ねる際にも尾行がつき、函館では連絡船への乗船を阻まれました。 軍事色一色の時代。「私の髪の毛や瞳が黒ければ」と弱音を吐きそうになっても、リタは日本人として生きようと努めます。着物を着て帯を結び、煮物もつくれば沢庵や梅干しも漬ける。イカの塩辛は、政孝が食べやすいよう、繊維に直角に切りそろえました。 当時の男性の例に漏れず、かなりの亭主関白でもあった政孝を、リタは守り立て、尽くしました。が、帰宅時に夕食の膳が整っていないと機嫌が悪くなるくせに、ときに時間にルーズな夫を「夕食は家で食べるのか食べないのか、はっきり告げるのが男の礼儀ではありませんか」と諌めることも忘れませんでした。 そんなリタの誕生日に、政孝は必ずメッセージを添えて本を贈りました。いまも旧竹鶴邸の書棚には、表紙裏に愛情いっぱいの言葉が記された多くの本が並んでいます。 戦後、養子の威(たけし)夫妻の子供のために、リタはひと針ひと針ベビー服を縫い、ときには吊りズボン姿で煙突掃除に勤しみました。昼は作りたての弁当を綿入れに包み、自転車で工場に届ける。そんな毎日の息抜きは、午後3時のお茶。気分のよい日はバスケットを提げて、ピクニックに出かけました。余市の町を見下ろす美園の丘で、温かな紅茶を味わう午後。30年近く訪れていない故郷を、静かに思うひと時だったのでしょうか。