3人の男子生徒に体を押さえつけられ…女子に多い「依頼いじめ」の実態
学校とはどのような場所なのか、いじめはなぜ蔓延してしまうのか。学校や社会からいまだ苦しみが消えない理由とは。 【写真】じつは知らない、「低所得家庭の子ども」3人に1人が「体験ゼロ」の衝撃! いじめ研究の第一人者によるロングセラー『いじめの構造』で平易に分析される、学校でのいじめ問題の本質――。
【事例・ばっさり】
「東京の中学一年生、C子さんのケースは、女子に多い「依頼いじめ」だった。放課後の教室でC子さんは、三人の男子生徒に体を押さえつけられた。体の自由がきかなくなったC子さんの髪にハサミが向けられた。クラスの中でもかなりの美人だったC子さんの黒髪は、無残な姿になってしまった。しかも、その三人の男子生徒のうちの一人は、C子さんの彼氏だった」 (太田覚「いじめ地獄絶望の報告書」『週刊朝日』一九九五・一・六‐一三号) 彼らは、個人と個人との間の信頼関係がないにもかかわらず、濃密に密着しあっている。そこには彼ら独自の、濃密な共同性がある。 わたしたちの基準からは、残酷で薄情なものでしかない群れに対する彼らの忠誠と紐帯は、日清戦争で「死んでもラッパをはなさなかった」兵士にまさるとも劣らない。わたしたちと彼らとでは、濃密‐希薄の尺度、さらにはきずなとは、信頼とは何かについての尺度が異なっているのだ。
ノリは神聖にしておかすべからず
大人びていて幼児的 もう一度繰り返そう。 いじめの場を生きている生徒たちは、ある意味では「人間関係が濃密」であり、別の意味では「希薄」である。 彼らは、ある意味では「幼児的」であり、かつ別の意味では「大人びて」いる。 また、あるタイプの「秩序が解体」しており、かつ別のタイプの「秩序が過重」である。 自然言語的了解(ことばのフィーリング)としては、「幼児的」は「大人びた」計算高さと矛盾するが、いじめの場において、「幼児的」と呼ばれる特徴と「大人びた」と呼ばれる特徴は表裏一体となっている。つまり、「大人びた」しかたで「幼児的」なノリを生きている。 学者や評論家が「幼児的」という稚拙な言葉で言い表そうとしている、悪ノリにふける群れのありさまは、全能を得ようとする傾向と呼ぶほうが正確である。この全能を仲間内で分相応に配分する、せちがらい政治と過酷な身分秩序は、まったく「幼児的」ではない。 空騒ぎしながらひたすらノリを生きている中学生のかたまりは、無秩序・無規範どころか、こういったタイプの仲間内の秩序に隷従し、はいつくばって生きている。 また、個人と個人の信頼に裏打ちされた親密性をきずなのあかしとすると、「人間関係が希薄」に見える。それに対して、「みんな」のノリを共に生きる「いま・ここ」を基準にすると、きずなが「濃密」に見える。 こういう思考の混乱は、秩序を単数と考えることから生じる。先に述べたように、Aタイプの秩序、Bタイプの秩序、Cタイプの秩序というように、秩序には複数のタイプがある。われわれは日々コミュニケーションを通じて、A秩序、B秩序、C秩序……といったさまざまなローカルな(小さな社会の)秩序を生み出しながらその中で暮らしている。 これらの秩序のうち、あるタイプの秩序が純粋にそれだけで存在することはまれである。あるタイプの秩序は別のタイプの秩序との関係のなかに位置(生態学的ニッチ)を占めて存在している(図1参照)。こういったさまざまな秩序のせめぎあいに応じて、Aリアリティ、Bリアリティ、Cリアリティ……といったさまざまな現実感覚(リアリティ)が、「あたりまえ」の位置を奪いあっている。図1のような諸秩序の連関を、本書では、秩序の生態学的布置と呼ぼう。「布置」とは、それぞれの要素が他の要素との関係の中で位置を占めて存在する配置の構図である。
内藤 朝雄(明治大学准教授)