伝承される国立競技場の存在意義
日本サッカー界きってのゲームメーカーであるラモス瑠偉が、サッカーボールを使った曲芸を繰り出す。人気者の中山雅史が絶妙な飛び出しからゴールを決める。早大ラグビー部のプリンスだった本城和彦がやわらかくも鋭利なランとパスを繰り出す。水泳の鈴木大地やレスリングの吉田沙保里などオリンピアンらが、聖火のトーチを繋いだ。バレーボールで金メダルを取ったの谷田絹子さん、松村好子さんは、過去と現在がシンクロする風景に涙をこらえた。こけら落としとなった1964年の東京オリンピックでは、このアンツーカーを入場行進で歩いていたのだ。 2014年5月31日。現在の東京・国立競技場での最後のイベント「SAYONARA国立競技場FINAL“FOR THE FUTUERE”」が行われた。午前中は観客がグラウンドを自由に駆け回るファンランイベント、午後はサッカー界と大学ラグビー界の往年の名選手らによるレジェンドマッチがそれぞれあり、夜になるとファイナルイベントが続いた。21時8分頃、聖火台の炎が消えた。長らく日本スポーツ界の聖地だったスタジアムは、2019年のラグビーワールドカップ、そして翌20年の2度目の東京オリンピックに向けて生まれ変わる。 「このグラウンド、世界一だと思います」 現在、ラグビー日本代表の副将として世界を転戦する五郎丸歩は、迷いなく言い切ったことがある。遡って24日、同会場最後のスポーツ公式戦となったアジア五カ国対抗の香港代表戦を翌日に控えた昼である。スコットランドのマレーフィールドなど欧州の有名スタジアムと比べても、早大時代の大学選手権決勝などで踏んだ国立競技場の芝生は「硬すぎず柔らかすぎず、水はけもいい」というのだ。 芝への賛辞は、この日のレジェンドマッチに出場した選手からも送られた。「芝目が短めで、じゅうたんのよう。ボールは良く走るし、ミスの言い訳のきかないすばらしいピッチでした」。1998年のフランスワールドカップでサッカー日本代表主将を務め、122試合もの国際Aマッチに出場した井原正巳はこう語った。井原とともにワールドカップを戦った中山は、「一時期、芝に色を塗っていたこともあったと聞きますけど、いまは世界に恥じない素晴らしいピッチですね」とも語っている。ハートで魅せる人というパブリックイメージを逆手に取り、「僕のテクニックを活かすのはこのグラウンドかな」とおどけてもいた。 国立競技場の価値は、ハード面のみに留まらない。この日、点を取ってファンに大きなお辞儀をした中山は、このスタジアムの心地よさをこう指摘する。「(ピッチとスタンドの間に)トラックがありながら、客席を身近に感じられるんですよね。サポーターの声、力を、直に受けられるという思いが、僕のなかにはありますね」。サッカー日本代表として井原や中山と同時期に活躍した北澤豪は、サッカー文化が定着しつつある折にスタジアムの底力を感じた。 97年10月26日。93年のJリーグ開幕に伴うバブル的人気が落ち着いた頃である。この夜、それまで1勝1敗3引き分けと苦戦続きだったフランスワールドカップのアジア地区最終予選のUAE戦で、またも勝てなかった。1-1。北澤に、井原に、大音量の罵声が届いた。「勝たなきゃいけない時に引き分けて、ブーイング。批評をする時代が来たな、たかがサッカーでこれだけ人の心が動くんだ、と。友達まで皆、敵になったみたいで。勝負に対するこだわりを全国民が持ち始めた」。