【連載】特攻兵の「帰還」 戦後79年えひめ ⑧残された謎
少しずつ堀元官一さんの特攻の全体像が明らかになる中、筆者には調べたいことがいくつかあった。 ■ 埋葬地 一つは、堀元さんの埋葬地がどこかという問題だ。 前回紹介した米の新聞記事「日本の女学生への公開書簡」には「(堀元さんの)遺体は沖縄沖の小さな島に埋葬された」と書かれてある。この情報を堀元家に伝えたとき、官一さんの妹の朝子さんが「お参りしたい」と口にした。憧れの兄だっただけに無理もない。取材に協力してくれた堀元家のためにも、成果を得たかった。 この話は、米国の協力者のトニー・ティールさんやトム・パイシュさんも考察しており、結論としては、米駆逐艦イングラハムが堀元さんの特攻を受けた直後に停泊した慶良間諸島、それも座間味島周辺の可能性が高いとのことだった。 根拠の一つは、戦後出版された「U.S.S. Ingrahamの歴史」という本に、当時のイングラハム乗組員のこんな記録が掲載されているからだ。 「今日は(船の)食堂にあった遺体を上げました。全部で12人です。他の遺体はもう見つかることがないでしょう。キャンバスに包み、埋葬のために島へ持っていきました。(中略)日本人のパイロットも飛行機から切り取られました。残った部分だけですが彼の遺体を埋葬するために、浜へ持って行きました…」 またイングラハムのジョン・F・ハーパー艦長のスクラップブックにある沖縄の地図では、座間味島の南にある安室島付近に「Refuge anchorage(避難停泊地)」と示してある。 < 1945年5月4日当時、沖縄本島では激しい戦闘が繰り広げられていた。総合的に考えて、堀元さんは米兵とともに、この周辺の浜に葬られたと考えるのが自然だと思われる。 ただ、具体的に浜を特定するとなると難しかった。筆者は座間味村教育委員会に資料を送り問い合わせているが、今のところ有力な情報は得られていない。 慶良間諸島は1945年3月26日、沖縄戦で最初に米軍が上陸した地だ。座間味島では戦闘があった上に、総務省によると住民234人が集団自決で亡くなっている。墓所を特定するには、当時あまりに多くの血が流れていた。 ■ 遺 品 もう一つ謎めいていたのが堀元さんの遺品とみられる品々だ。
愛媛新聞社