『火の鳥 大地編』『妻から見た一代記』……手塚治虫、描かれなかった幻の新作は? インタビューから考察
■手塚の絶筆となった漫画3作品 漫画界の巨匠・手塚治虫は、1989年に胃癌のためにこの世を去った。手塚は入院先の病院のベッドでも仕事を続け、最後の言葉が「仕事をさせてくれ」だったことは有名だ。そんな手塚が存命であったならば、どのような作品が描かれていたのだろうか。歴史にもしもは無いとはいえ、気になるところである。 【写真】手塚治虫の漫画・復刻版『魔法屋敷』の試し読みやブラックジャックなど魅力的な漫画 一般的に手塚の絶筆とされているのは『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』『ルードウィヒ・B』の3作である。それ以外にも、『青いブリンク』や『ジャングル大帝』のアニメーションの制作も進行していた。また、ベッドで綴られた日記にアイディアを書き留めていた『トイレのピエタ』も有名である。 手塚は亡くなる前年、ファンクラブの会誌でインタビューに応じ、89年の抱負を語っている。そのなかに貴重なコメントが多いので紹介しよう。まず、手塚は「1988年は病づくしの1年であった」と振り返っている。病気に始まって病気に終わってしまい、連載の中断も多く、病気に取り付かれた1年だったとコメントしている。 それゆえ、1989年は「僕にとって福の年のような気がする」と語り、いろいろなイベントや仕事に精を出したいと意気込んでいた。実際、仕事の依頼もあちこちからあるのだという。自身の体力が非常に弱ってきていると実感しつつも、気力はまだまだあり、無駄な仕事やつまらない依頼は断り、良い仕事をこなしていきたいと発言している。仕事への情熱が凄まじかったことは、こうしたコメントからも理解できよう。 ■日中戦争を舞台にした『火の鳥 大地編』 1989年に始まる予定の新連載もあった。まず、テレビアニメ『青いブリンク』と『ジャングル大帝』とタイアップし、学年誌と幼年誌で連載が始まる計画があった。『青いブリンク』は小学館関係の雑誌で、『ジャングル大帝』は学研の雑誌での仕事になりそう、と手塚が語っている。どちらかの作品はセル画を使うか手塚プロの漫画部の人の筆になる可能性を示唆しつつ、一本は手塚が自ら描こうと考えていたようだ。「久しぶりの幼年ものですから、はりきって描こうと思っています」というコメントにもあるように、手塚は生涯にわたって子ども向け漫画にこだわりを見せていた。 手塚が語っていた構想の中で有名なのは、『火の鳥 大地編』である。1989年中に連載が始まる予定だったようで、手塚曰く、日中戦争の時代がテーマになり、上海から始まって楼蘭に終わるというスケールの大きなドラマを考えていたらしい。主人公は軍人であり、従来の『火の鳥』とはかなり雰囲気が異なるストーリーになっていたようである。 手塚は『火の鳥』の前作『太陽編』の出来に不満を抱いていたようで、インタビューでは「わけのわからない失敗を繰り返した」と語っている。その反省を踏まえ、『大地編』はちゃんとシナリオも書いてから、執筆を開始しようと考えていたようだ。 ■息子との対談本や、妻が登場する新作の構想も 他に語っていた新作の構想のうち、興味深い作品の一つが、「手塚の奥さんから見た手塚治虫の一代記」である。タイトルはまだ決まっておらずあくまでも構想段階だったようだが、妻視点の手塚の姿を、漫画家ではなく、アニメーター寄りの内容で描いてみたいとする構想だ。手塚はNHKの朝の連続テレビ小説を例に挙げ、アニメに取り憑かれた男に寄り添う女性の話を描きたい、と考えていたようだ。 手塚の自伝的な漫画は『紙の砦』『ゴッドファーザーの息子』など多く描かれているし、『マコとルミとチイ』など自身の家族を題材にした作品もあるが、妻視点の作品、しかもアニメをテーマにした作品は非常に斬新である。さらに、アニメーターの姿を描いた漫画自体も珍しい。内容的には大人向けの漫画になりそうだが、どんな内容になっていたのか興味津々である。 他にも、息子の手塚眞と対談集を出す計画もあったようだ。これは大和書房で出版が企画されたようで、例えば特撮や女性など20くらいの項目を出してもらい、様々なテーマについて話を交わす本を考えていたようだ。 当時、手塚の年齢は世間には62歳と思われていたが、実際は60歳であり、まさに人生の節目であった。妻、そして息子と、こういった作品が企画されていたということは、手塚は1989年を自身の人生を振り返る機会にしようと考えていたのかもしれない。 ■いったいどんな依頼があったのだろうか 手塚はインタビューの中で、あちこちから仕事の依頼があると語っている。手塚は晩年も人気漫画家であり、仕事の依頼は絶えなかったし、イベントなどのマスコットのデザインも精力的にこなしていた。出版社側がいったいどんな仕事を依頼しようとしていたのか、非常に気になるところである。 もしかしたら、手塚から構想を聞かされていた編集者や関係者も、実は何人もいるのではないだろうか。その中には世に知られているアイディアもあれば、知られていないものもあるだろう。2024年は手塚の没後35年という節目だが、断片的に話を聞いていたはずの編集者も高齢になっており、年月の経過とともに記憶がおぼろげになりつつあるのではないかと危惧される。 手塚の子ども時代を知る人の証言を『親友が語る手塚治虫の少年時代』にまとめた田浦紀子のように、関係者の思い出や記憶をたどり、手塚の人物像を明らかにしようと試みている研究者もいる。晩年、手塚から直接、作品の構想を聞かされたと編集者はまだまだいるのではないだろうか。そういった人は、ぜひ筆者に一報いただきたいものである。
文=山内貴範