今夜、絞首台に上る特攻隊長「人生は量にあらず、質にあり」最後の日に綴ったこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#66
相談事は田嶋先生が快諾
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 私の家に残っているものは適当に母に配けてもらいなさい。どうも少しも死ぬ様な気がしないで困ります。実感が湧いて来ない。やはり死なないのです。私の内の深い底から湧いて来る確固たる実感ですから。いろいろな悩みや、仏教上の疑問や、人生上の相談事は田島先生が快諾されましたから、その都度手紙ででも問合せなさい。先生の様な人と話しながら死ねる事は私の最大の幸福です。 「刀剣と歴史」(昭和57年11月号)刀菊山人<なまくら剣談(三十)>に掲載された幕田の遺書は、スペースの制限があり、ここまでの掲載となっている。 〈写真:田嶋隆純教誨師〉 「巣鴨の父」と呼ばれた教誨師の田嶋隆純は、死刑囚の執行まで寄り添っただけでなく、その遺族たちの相談にも乗り、心の拠り所となった。死刑囚たちの助命嘆願の活動にも熱心に取り組んだ。その田嶋師の遺品の中に、幕田稔ではないかと思われるスーツ姿の写真があった。敗戦後、スガモプリズンに囚われる前に撮影されたのだろう。穏やかな表情からは、戦時中、米兵を斬首したことは想像もできない。そして田嶋教誨師が「わがいのち果てる日に」(1953年7月31日発行)に掲載した幕田の遺書はこのあとも続く。手が疲れて少し休みながらも幕田は「執行」ぎりぎりまで書き続けたのだったー。 (エピソード67に続く) *本エピソードは第66話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。