懐かしい「LARK」カラーのマシンは星野一義選手が乗ったホンモノ! 全日本F2選手権に参戦した「クラコ マーチ85B ホンダ」とは
F2からF3000でトップコンテンダーとして1980年代を駆け抜けたマーチ
様々なカテゴリーに向けて市販レーシングカーを数多くリリースしてきたマーチですが、1980年代に入ると各カテゴリーではライバルが勢力を拡大していきました。またF1GPではターボ・エンジンを手に入れることができず、ライバルに後れを取ってしまったのです。そんな状況下でもトップコンテンダーであり続けたカテゴリーがF2/F3000でした。 ホンダがラルトやスピリットと手を組みV6パワーでF2を席巻した時代に、唯一最大のライバルとなったのがBMWと手を組んだマーチでした。そしてF2からF3000に移行してからも、マーチはトップコンテンダーとしてのポジションをキープしていたのです。 ただし残念ながら1980年代の終盤になると新素材の導入などでライバルに後れを取り、トップコンテンダーの座を手放すことになり、かつての優位を失うことに。それでもF3000に移行した当初は、ヨーロッパでは1985年から、日本では1987年からF3000による選手権がスタートしています。 ですが、マーチでは1985年と1986年の2年間、ヨーロッパF3000選手権と全日本F2選手権に、基本的には共通設計ながらコスワース製のV8エンジンを搭載するF3000用シャシーの85B/86Bと、BMWの直4エンジンやHondaのV6エンジンを搭載するF2用シャシーの85J/86Jをヨーロッパと日本国内に供給しています。 アルミハニカムのツインプレートをベースに、カーボンファイバーで成形したモノコック上半分をリベットで接合したハイブリッド・モノコックは、F2仕様の842から採用されマーチのハイテクさを示したのです。
星野一義選手が乗ったF2マシン
今回「箱車の祭典2023」に姿を見せたLARKカラーの85Bは数奇な運命を辿った1台でした。1985年シーズンの全日本F2選手権に星野一義選手は自らのチーム、ホシノ・レーシングから参戦。LARKカラーに塗られた車両は「クラコ マーチ85B ホンダ」。日本専用85Jの8号車に、前年までのBMWに代えてこのシーズンから手に入れたHondaエンジンを搭載しています。星野選手にとっては最高のウェポンを手に入れ気合の入ったシーズンインとなりました。 なお車名につくクラコ(Kraco)はゴム製品を主体に、様々な自動車用品を生産するカーアクセサリーのメーカーで、CARTレースにもチームを組織して参戦中。1983年からはマシンをマーチに一本化し、マーチ社を支援する関係となったことから1984年の842からは正式な車名としてクラコ-マーチを名乗るようになっていました。 さて、クラコ-マーチ85Jを駆る星野選手ですが、最初の公式セッションとなった開幕戦の予選1回目、ウェットコンディションの中、早くもトップタイムをマーク。公式予選でも松本恵二選手に次いでフロントロー2番手グリッドを得ています。決勝ではスタートから飛び出してトップを快走しましたが、まさにゴール直前となったところでホイールが緩むトラブルでストップ、10位に終わってしまいます。 そしてシリーズ第2戦と第3戦では2戦続けて中嶋 悟選手に先を越されて連続2位に終わり、迎えた第4戦の鈴鹿では決勝前のフリー走行にてクラッシュしてしまいました。マシンはほぼ全損で新たなレーシングカーを手配しなければならないのですが、日本仕様としたマーチ85Jは10台のみが製作され、全て日本国内のチームに供給されていましたから、85Jの新車は用意できません。 そこでホシノ・レーシング陣営が講じた作戦がマーチからヨーロッパF3000用シャシー(ワークスで使用していた85Bでシャシーナンバーは85B-1)を手に入れ、全日本F2仕様にコンバートすることでした。そこにはチームのタイトルスポンサーであるLARK(マールボロと同様にフィリップ・モーリス社の煙草ブランドで、ヨーロッパF3000ではマーチのワークスチームをマールボロ・ブランドでサポートしていました)のサポートもあったのです。 幸いモノコックやサスペンションは共通で、コンバートも無理なく進められ、6週間後のシリーズ第5戦・鈴鹿にはマーチ85B/85Jとして姿を見せると予選2番手からスタートダッシュでトップを奪い、あとはそのまま独走。星野パターンで快走しトップチェッカーを受けています。
原田 了