川勝平太知事は「早稲田大教授」時代から嫌われ者だった 28年前の学生情報誌は「高い教科書を買わせる」「別の先生にすべし」と酷評
差別発言がきっかけで辞任へ追い込まれた静岡県の川勝平太知事(75)。大学教授時代の評判はどうだったのか。川勝氏が1998年まで教授を務めていた早稲田大学政経学部の「教え子」たちに聞いてみたが、やっぱり…。 【写真】早大OBなら誰もが知る学生情報誌「マイルストーン」に記載されていた28年前の「川勝平太教授」の採点表。イケメン教授として人気だった頃の写真も ***
ほとんどの教え子が「覚えていない」と口を揃えるワケ
「こんなバッシングを受けながら、去り際に細川ガラシャの辞世の句を読むなんてとことん空気が読めない人ですね」 こう呆れるのは40代の早稲田OBである。 川勝氏は1990年、41歳の若さで母校である早稲田大学政経学部の教授に就任。世界史を「アジアの海」の視点から捉え直した独自の歴史観「文明の海洋史観」を提唱し、新進気鋭の経済学者として注目を集めた。 98年、国際日本文化研究センター教授に転身。2007年、静岡文化芸術大学に学長として招聘されたことがきっかけで、09年に静岡県知事選に出馬した。 前出の早稲田OBは川勝氏の授業を取っていたと話す。だが、どんな授業風景だったのかと尋ねても、 「うーん、思い出せない。何かの必修科目で無事単位はもらえた記憶だけはあるのですが、何の授業だったかも思い出せない。苦労した記憶だけはあるのだけれども…」 川勝氏の在職期間に在学していた早稲田政経OBに話を聞くと、ほとんどが同じような反応を示す。「顔だけはうっすら覚えている」「落とされた恨みだけは何となく覚えている」。 理由は授業に出ていなかったからだ。それが当たり前の時代だった。
「最後の楽園」と呼ばれていた政経学部
「今の学生さんたちからみると信じられないような時代で、大学は遊園地みたいなところだった。高田馬場駅から歩いて大学にたどり着くまでに、雀荘に吸い込まれてそのまま徹夜みたいな。私の時代は2年に一度、学生自治会が仕切って試験を『ストライキ』する慣習もまだ残っていた。ストが可決されると試験がなくなり、レポートだけで切り抜けられるので、みんな大喜びで革マル派学生のアジに賛意を示したものです」(93年卒業生) 「特に政経学部は『最後の楽園』と呼ばれていて、出欠を取らない先生がほとんど。試験も持ち込みアリで、いい先生だとどんな問題が出るか事前に教えてくれた。テストに感想文みたいなことを書くだけでも『良』をくれる教授がいて、『あの先生は全良制だから取った方がいい』みたいな言い方をしていた」(00年卒業生) 学生たちはどうしたら楽に単位を取得できるか口コミ情報を欲していて、4月になると教授の評判がまとめられた学内情報誌が飛ぶように売れた。有名なのが出版サークル「早稲田大学マイルストーン編集会」が発行する「Milestone Express」である。「早大生のバイブル」と呼ばれ、今も大学内や早稲田駅前の書店で販売されている。 「出欠を取る取らないなどの基本情報や試験の難易度や評判が点数化されていて、重宝したものです」(前出のOB) 「デイリー新潮」は96年発行の同誌を入手。そこに「日本経済史」の教授として川勝氏の評価は掲載されていた。