思わず好きになる!? みんなが知らない数学の「別の顔」
数学は「人類の叡智の極致」である
「数式!? 見るだけで嫌!」という人も多いだろう。数学嫌いの理由の一つに、「数式アレルギー」があるのは間違いない。 しかし、私はさまざまな数式を眺めるときにいつも、ちょっと大げさにいえば、そこに、そして総じて“数学”というものに、「人類の叡智の極致」を感じる。 “数式”という言葉を聞くだけでウンザリする人も少なくないかもしれないが、じつは、私たちは日常生活のさまざまな場面で、知らず知らずのうちにたくさんの数式を使っているし、その恩恵に浴している。 そして、その「威力」には、なかなかにすさまじいものがあるのだ。 たとえば、胸の高さまで持ち上げたボールから手を離すと、ボールは地面に落下する。当たり前の現象だが、この「物体の落下現象」は、たった2つの数式によって、その一般的な法則を表すことができる。 面白いのは、その数式によれば、「どんな物体も、その重さや形状に関係なく、同じように落下する」ということだ。直感的には、鉄球は発泡スチロール製の球より速く落下しそうな気がするが、じつはそうではないのだ。 また、世界一有名な方程式であるE=mc2は、日常的な感覚からはとうてい理解しがたい、「エネルギーと質量が等価である」ことを示しているが、これもまた、物理学上の最も重要な理論の1つである「相対性理論」の骨格をなすものである。 私がいつも不思議に思うのは、百パーセント人間の創造物である数式が、人間とはまったく関係のない純粋な自然現象である「物体の落下」や「エネルギーと質量の等価性」について、ものの見事に表現することができることである。 まったくの人工物がなぜ、これほど見事に自然現象を記述することができるのか?
「自然は数学の言葉で書かれている」のか?
私は、数学あるいは数式を「外国語」の一種だと思っている。 外国へいったとき、外国語ができなくてもなんとかなるだろうが、多少でも外国語を理解できたほうが何かと便利だし、滞在中の楽しみも格段に拡がる。 それと同じように、数学あるいは数式という「外国語」は、自然現象のみならず社会現象を理解するのに大いに役立ってくれるものなのだ。 ただし、数学(“数”の学問)は、「自然」を理解するうえできわめて有力な「外国語」ではあるが、“数”というものが、自然界に存在するわけではない。 数学という「言語」も、すべての言語と同様に、百パーセント人間によって創られたものである。 したがって、「自然の書物は数学の言葉によって書かれている」というガリレイの言葉は、注意して読まなければならない。 自然科学が対象とするのは、自然界に起こっている現象、すなわち自然の実態であるが、“数”および“数学”は、あくまで人間によって創られたものである。じつに興味深いことに、人間が頭の中で創り上げた数学と自然現象そのものとのあいだに、きわめて深いつながりがあり、それは先ほどの「物体の落下現象」などで見たとおりである。 私には、このことが不思議で仕方ない。 じつは、「自然界に法則というものが存在するのかしないのか」は大きな問題なのであるが、「法則がある」と仮定して組み立てたのが、人間が創り上げた科学であり、数学なのである。 夏目漱石の孫弟子(寺田寅彦の弟子)で、「雪の研究」で世界的に有名な中谷宇吉郎(なかや・うきちろう、1900~62)の言葉を借りれば、「自然界から現在の科学に適した面を抜き出して、法則をつくっている」(『科学の方法』岩波新書、1958)ということもできるだろう。 いうまでもないことだが、自然科学を進めるのは人間であるし、自然科学という学問は自然と人間とのつながりでできるものである。長年、実験物理学の分野で仕事をしてきた私は、そのことを痛感する(拙著『自然現象はなぜ数式で記述できるのか』PHP サイエンス・ワールド新書、2010)。