「引退した今、話そうと…」山本脩斗が語るジュビロ磐田への感謝。命の危険すらあった病気から学んだ姿勢
38歳での引退を決意した山本脩斗。ジュビロ磐田、鹿島アントラーズ、湘南ベルマーレでプレーし、鹿島時代には国内3大タイトル獲得とアジア制覇を成し遂げている。素晴らしい実績を残した16年間のプロ生活だが、そのキャリアのスタートは病気の発覚により、命の危険すらあった状況だったという。病気と向き合い、乗り越えた経緯、そしてジュビロ磐田への感謝の思いを聞いた。 (インタビュー・構成=原田大輔、撮影=佐野美樹、本文プレー写真=徳原隆元/アフロ)
「あのときのジュビロの配慮がなければ…」
16年間に及ぶ選手生活にピリオドを打った山本脩斗の、プロサッカー選手としてのキャリアがスタートしたのは、ジュビロ磐田だった。 しかし、早稲田大学に在籍し、プロ契約を目前に控えた大学4年生のときに、メディカルチェックにて病気が発覚する。原発性左鎖骨下静脈血栓症(ページェット・シュレッター症候群)――命の危険すらあった症状に、子どものころから夢見てきたプロサッカー選手になるという希望は打ち砕かれそうになる。 それでも、ジュビロの配慮と適切な治療により、山本脩斗は病気を克服してピッチに立った。 「あのときのジュビロの配慮がなければ、16年間もプロサッカー選手を続けることはできなかった」 引退を決意した今、自身が乗り越えてきたその過程を明かしてくれた。そこには、自分にプロサッカー選手としての一歩を踏み出させてくれたクラブへの感謝があった。
目の前が真っ暗に。メディカルチェックで発覚した血栓
――プロサッカー選手として過ごした16年間のキャリアを振り返ると、タイトルを獲った鹿島アントラーズやキャリア晩年を過ごした湘南ベルマーレだけでなく、2008年にプロサッカー選手としての一歩を踏み出したジュビロ磐田にも、感謝は大きいのではないでしょうか? 山本:本当にそのとおりです。プロサッカー選手になれるか、なれないか。ジュビロではなく、他のチームでキャリアをスタートさせようとしていたら、自分はプロになれなかったかもしれないので、本当に感謝しています。 ――感謝を示す理由の一つは、早稲田大学からジュビロに加入を決めた契約時のことだと思います。原発性左鎖骨下静脈血栓症(ページェット・シュレッター症候群)が発覚したのは、プロ契約するためのメディカルチェックでした。 山本:このことについては、今まで自分から率先して話そうとはしなかったんです。それは人によって、さまざまな受け取り方があると思っていたからです。でも、僕の経験が少しでも参考や希望になるかもしれないと考えると、引退した今、話そうと思います。あの状況で自分と契約してくれたジュビロへの感謝も含めて。 ――当時、自覚症状はあったのでしょうか? 山本:確か、あれはインカレ(全日本大学サッカー選手権大会)の直前だったと思います。ある日、左腕がパンパンにむくんでいたんです。自分でも『おかしいな?』とは思っていたけど、当時は筋トレもやっていたので、周りとも『筋トレのやりすぎじゃない?』って笑いながら話していて。それでもしばらく、むくみが治まらず、気になって近くの病院で検査してもらいました。でも、そこでは原因がわからず、湿布を処方されて。 ――初期症状としては、そんな自覚があったんですね。 山本:腕に湿布を貼って練習していたのですが、1週間後に、たまたまジュビロでメディカルチェックが予定されていたんです。それで静岡に行き、検査している過程で、腕のことも話して、ついでに診てもらおうと、エコーを撮ってもらった。そうしたら、血栓がふわふわしているのが見つかって、すぐにドクターから入院してくださいと言われました。「いつ(血栓が)飛んでいてもおかしくなかったですよ」と、真顔で言われて、普通に練習していたことの怖さも感じて、頭のなかが真っ白になりました。すぐに親にも電話して……父親が不安そうにしている声もわかって、自分自身もさらに不安になり、目の前が真っ暗になりましたね。 ――そこから治療を開始したんですね。 山本:結局、そのまま3週間入院して、投薬によって血栓を流す治療を受けました。チームドクターとも相談しましたが、症例も少なく、治癒するまでの時間も見えなかった。そこでジュビロが選手ではなく、契約社員として、まずは契約してくれるという配慮をしてくれました。だからこそ、その対応に感謝しかないんです。その後、薬の効果で血栓も流れ、ジョギングをはじめ、ボールを蹴って、段階を踏んでチームに合流し、正式に選手として契約できたのが2008年の6月でした。