終戦3日前、満州で招集された父 88歳の息子に届いた「最期の記録」【モンゴル抑留死亡者の名簿あり】
うちにも戦争があった モンゴル抑留編㊦
「山元正昂(まさたか)さんというモンゴルで抑留され亡くなった方のご遺族が鹿児島にいらっしゃるようですが」。福岡県太宰府市出身で北海道に住むジャーナリスト、井手裕彦さん(69)に一本のメールが届いたのは1月26日のことだった。 【写真】分厚い自著「命の嘆願書」を手に決意を語る井手裕彦さん 読売新聞大阪本社で抑留問題を執筆していた井手さん。「記者人生最後の大仕事」として、2020年1月、モンゴル・ウランバートルの国立中央公文書館から、日本政府が把握していない情報を含む多数の抑留記録を持ち帰った。 退職後、抑留取材の一部始終を3年がかりで記し、昨年8月、135万字の大作「命の嘆願書」を福岡市の集広舎より出版。「一人でも多くのご遺族に、持ち帰った死亡記録を届けたい」と、283人の死亡者全員の名簿を載せ、情報提供を呼びかけていたのだ。 メールを送ってきたのはこの本を読んだ岡山県の女性。祖母が鹿児島出身だったため鹿児島出身の正昂さんに目がとどまり、遺族が国立施設「昭和館」(東京)のホームページの動画で戦争の証言をしていたのを思い出したという。井手さんが動画を確認すると証言が持ち帰った記録と合致。2月5日に連絡すると、動画の主は正昂さんの長男、山元正光さん(88)だった。「ぜひ記録を拝見したい」と請われ説明文を付けて郵送した。 ようやく対面での説明が実現したのは7月10日、鹿児島市で。井手さんが持ち帰った記録は、モンゴル・スフバートル病院の死没者一覧表と墓地区画図。それによると正昂さんは当時、スフバートル収容所で流行していた感染症「回帰熱」のため亡くなっていた。姓が「山元」ではなく「山本」と記されていたが、原籍地の住所が詳細な番地まで一致した。「表の記述が日本語なのは、大切な死亡記録を日本の遺族に伝えようと、日本人軍医らが懸命に書き残した証し」と井手さん。埋葬された墓地の区画も「29」と記されていた。 「父の遺骨は荒れ地にほったらかしにされたとばかり思っていたが一応、病院でみとられ埋葬もされていたと分かりほっとした」と山元さん。「この年齢でモンゴルまで墓参りには行けないが、やっと一区切りが付いた」と感謝した。 井手さんは、正昂さんも終戦間際の満州で起きた「根こそぎ動員」の犠牲者の一人とみる。戦況の悪化から関東軍の多くが南方戦線に移り、戦力が弱体化していた1945年、ソ連参戦が迫る中、軍は穴埋めに満州在住の公務員や会社員らを大量召集した。同年7月だけで25万人に上り、ついに終戦の3日前、現地の治安を守る警察官だった正昂さんも召集された。 一度も後ろを振り向かず出征した父の後ろ姿を山元さんは79年後の今もよく覚えている。「ほんの少しだけ戦争が早く終わっていれば」と無念さが募る。一方、1人で子ども4人を日本に連れ帰り育て上げた母の苦労を思うと「感謝で胸がいっぱいになる」という。 過酷な引き揚げを思い起こし「戦争の一番の犠牲者は民間人ということを身をもって体験した」と語る山元さん。だからこそ、鹿児島市遺族会会長として2年前から仲間と小中学校や高校、大学で「語り部活動」を重ね、学生にはこんなメッセージを伝えてきた。「戦争は一度始まったらなかなか止められない。ウクライナもガザもそう。簡単に止められないからこそ、決して始めてはいけない」 井手さんの「命の嘆願書」は第9回シベリア抑留記録・文化賞を受賞した。モンゴルで見つけた記録を遺族へ渡す活動は、山元さんを皮切りに6人の抑留死亡者の遺族に届けられた。ただ、せっかく遺族の連絡先が分かったのに、肝心の息子が3年前に亡くなっていたケースに直面した。 「父親の最期の記録を子に渡すのと孫に渡すのとでは、重みが全然違う。来年は戦後80年で、もう時間はない。私自身も来年は70歳になるのであと1、2年が勝負。とにかく頑張らないと」。辞書より厚い1296ページもの著書を手に、決意を語った。 (特別編集委員・鶴丸哲雄)