気になる阪神・岡田監督の去就、ふと思い出した阪急の上田監督”辞意表明”事件…岡田監督…こんな手はいかがでしょうか
◇コラム「田所龍一の岡田監督『アレやコレ』」 とうとう《アレンパ》の夢がついえてしまった。残り5試合に全部勝てば奇跡が起こるかも…と期待していただけに、9月27日の広島戦、28日のヤクルト戦の連敗はさぞや岡田監督もガッカリしたことだろう。まだCSもあれば、2年連続の「日本一」も夢ではない。 ◆岡田監督、敗戦が決まり足早にベンチを後に…【写真】 とはいうもののここ数日、各スポーツ紙の注目は「岡田監督の去就」に集まっている。2年契約の2年目が終わろうとしているのだから注目するのは当たり前。だが、今は決断の時ではない。『気持ちが落ち込み荒んでいるときに、人生の大事な決断を下すべきではない』のだ。 昭和61(1986)年、筆者が阪急ブレーブスの担当記者をしていたときのお話をしよう。シーズン終盤、某スポーツ紙の先輩記者と一緒に大阪府豊中市の上田利治監督(以後、ウエさんと表記)の自宅を訪ねた。来季の構想を聞くためだ。するといきなり―。 「今シーズン限りで監督を辞めよう思ってるんや」 なんと、突然の《辞意表明》。思わず先輩と顔を見合わせた。 「なんでなんですか。優勝は逃したけど、前年の4位からAクラスの3位に復帰させたやないですか? 辞めなあかん理由を教えて下さい」 「ウチが優勝できんのはわしが監督をしているからや。5年も6年も1人の人間が監督をするもんやない。刺激もなくマンネリがウチの勝てん理由。チームのためにはわしが辞めることが一番なんや」 上田監督の言葉には重みがあった。昭和56年に梶本監督の後を受けてブレーブスの監督に復帰。56年2位、57年4位、58年2位、59年1位、60年4位、61年3位。上田監督は疲れていたのだろう。 このまま会社に戻って原稿を書けば『上田監督辞意表明!』のスクープである。だが、先輩と筆者はそのまま上田宅に残った。 「監督の気持ちはようく分かりました。では、次の監督は誰がやるんです? 阪急の監督ができるのは山田(久志)さんか福本(豊)さんしかいないでしょう。でも、2人ともまだ現役選手。準備ができていませんよ。それとも後任に誰がなろうと自分には関係ないと思ってらっしゃるんですか?」 予想もしなかった記者2人の反応にウエさんは驚いた表情をみせた。調子に乗った私たちはさらに続けた。 「このまま監督を辞められたら、ちょっと勝手過ぎると思います。監督とは勝つだけやなく、次の後継者造りも仕事やないんですか」 今思えば30歳そこそこの記者が、50年から53年まで4連覇を果たし、阪急の黄金期を築いた大監督に、なんともはや偉そうに生意気な口をきいたものである。 だが、ウエさんは怒ることもなく、じっと腕を組んで2人の話を聞いてくれたのである。ちなみに上田監督は阪急からオリックスに変わっても、なんと平成2(1990)年まで監督を続けた。 いま阪神タイガースの周囲を眺め、《次期監督候補》に名前が挙がる人物は誰だろう。鳥谷敬氏、藤川球児氏、福留孝介氏、赤星憲広氏…。いずれも現役を引退してすぐに解説者になり、コーチとしての指導者経験はない。そう、準備ができていないのだ。そのことは岡田監督も十分承知している。自信の著書の中でこう語っている。 『誰にせよ、まずユニホームを着ること。コーチ経験が必要だと思っている。いきなりの一軍監督は、誰にしても難しい。周りが支えるといっても、すべて最終的に決めるのは監督である自分。一軍監督はそれを判断するだけの経験がいる』 その通りである。岡田監督はこうもいう。 「オレが決めることやないが、下地は作っておきたい」 監督人事は球団や電鉄本社が決定する。だが、なぜが「大丈夫かなぁ」と不安にさせられる。それなら、こんな手はどうだろう。岡田監督の目で「こいつだ!」と思った人物を来季、コーチとして入閣させ、岡田監督自身の手で《帝王学》を伝授する。筆者はこれがいいと思うのだが…。 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
中日スポーツ