六大学ベストナイン選出の東京大・大原海輝が浦和高を選んだ理由「21世紀枠で甲子園を狙えるんじゃないかなって」
【野球と辞書が大好きな子どもだった】 ーー遡って野球との出会いを教えてもらえますか? 野球が大好きな父と、10歳上と6歳上の年が離れた兄がふたりいて、本当に物心ついた瞬間からというか、それこそ歩き始めると同時にバットを握って、父と一緒に野球の練習をしていました。 父親と公園でバッティング練習していると、小さいのにめちゃくちゃ打つわけですよ。通りすがりの方に「この子、すごいね! 将来はプロ野球選手だね!」とか言われて、父も僕も喜んでいました。 ーー同様に、子どもの頃の勉強のエピソードはありますか? 子どもの頃は辞書とか図鑑を読むのが好きでした。小学2年の誕生日プレゼントでほしいものを聞かれて、何を思ったのか漢字の辞書って言って。あまり覚えてないんですが、両親の話では、辞書をずっと眺めて楽しんでいたみたいです。 ーーちなみに、両親の教育方針はありましたか? 基本、すごく放任主義でした。子どもがやりたいことは、ちゃんと理由があればやらせてくれる家だったのかなと思います。でも、子どもがやると決めたことをやりきらせるというか、僕も野球は小中高とやりきるって決めていたので、「目標は絶対にぶらさず続けなさい」と両親はたくさんサポートしてくれました。 ーー小学校時代は地元の少年野球チームでプレーした大原選手。中学受験は考えてなかったですか? 全然考えてなかったです。公園で友だちとずっと遊んでいる小学生だったので。たぶん東大に入る大部分の人って中学受験を経験していると思うんですけど、その頃、僕は友だちと鬼ごっこしたり、野球している生活でした。 ーー塾は行ってなかったんですか? 塾は、小6の12月から仲のいい友だちが行っていたから僕も行こうという感じで通い始めましたが、中学受験を意識したわけじゃなかったです。
【文武両道と甲子園出場を目指して浦高へ】 ーー地元の所沢市立安松中へ進みますが、当時の野球部はどんな感じでしたか? 実は、中学の野球部の先生が、前任の中学を全国大会に連れて行ったことがある熱心な方で、朝6時に集まって夕方6時ぐらいまで練習するような感じでした。本当に、野球に時間を割いた中学生活でした。 ーー対して勉強のほうはいかがですか? たとえば、当時の得意科目と不得意科目は? 正直、得意科目も不得意科目もなかったです。僕は暗記をするのがすごく得意だったので、何とかテスト勉強を乗りきれちゃうみたいな感じがあって、苦手だなって思った科目はあまりなくて......。強いて言えば、国語ですね。 ーー現在は人文学科にもかかわらず? そうですね(笑)。 ーー大原さん流の暗記法とかはありましたか? 僕の場合は、とりあえず書く。自分の覚えたいところを何回か書いたほうが定着しやすいです。 ーー高校・大学の進学先のイメージはどのようにつくっていきましたか? 中学に入った当初は、東大というよりも、甲子園に行きたい思いが強くて野球の強い高校に行きたいなと思っていたんです。でも、中学で少し経つと、ある程度の勉強の成績が見えてきたのもあって、勉強もできて野球も強い高校に行きたいと思うようになりました。もちろん、東大は当時まだ考えていませんでしたが。 ーー勉強と野球の両方で選ぶと、少し限られてきますね。 たしかに勉強と野球の両立となると、私立でも公立でも限られてきてしまうのもあって、けっこう厳しいかもしれないと塾の先生とも話をしていて......。まずは自己推薦入試で早稲田実業を受けたんですが、落ちちゃったんです。 そんな頃、浦高(埼玉県立浦和高)が秋季大会で何十年かぶりのベスト16に入ったのを知って、もしかしたら浦高で21世紀枠での甲子園出場を狙えるんじゃないかなって。その時の僕にとって、公立で行ける勉強での一番高いレベルで、甲子園に一番近いかもしれない高校が浦高だったんです。 ーー浦高は納得の選択でしたか? はい。入学してすぐに体育の授業で思いきり走らされたり、体育大会とか行事もいっぱいあって、それでいて文武両道が当たり前の環境だったので楽しかったですよ! ーー後編では、東大受験や現在の野球部の話を深掘りしていきます。 後編<文武両道の高校球児に東大野球部入部のススメ 六大学ベストナイン大原海輝「今が一番楽しくて、やりがいがある」>を読む 【プロフィール】大原海輝 おおはら・かいき 2002年、埼玉県生まれ。幼い頃から野球を始め、安松中、浦和高でプレー。1浪を経て東京大理科一類に合格、その後文学部人文学科に転部。東京六大学野球では2024年春季リーグで33打数11安打8打点1本塁打、打率.333の好成績でベストナインに選出された。
門脇 正法●取材・文 text by Kadowaki Masanori