モラハラ夫を殺してしまいたい……妻たちのほのぐらい感情を描いた小説4選
夫に「ごはんはまだか」と言われたことに腹を立て、包丁で刺し殺した妻の事件が報じられたときに、思い出したのは村山由香の小説『ラヴィアンローズ』だった。 主人公の咲季子は、フラワーアレンジメント教室を営むカリスマ主婦である。夫は束縛が激しく、門限は9時と決められ、打ち合わせで男性と食事をすれば「いいか? 男と二人で向かい合って食事をするのは、セックスするのと同じなんだぞ。お前は俺を裏切った!」と怒鳴りつけられる。もの知らずだの、いい人ぶっているだけの八方美人だの、何かにつけて罵られ、評価されているはずの仕事でさえ馬鹿にされ、本の表紙ひとつ、夫の許可なく決めることができない。典型的なモラハラ夫である。それでも従ってきたのはすべて愛ゆえと信じていたからだが、年下の彼氏ができたことで少しずつ目を覚ましてゆく。そうしてあるとき、罵倒の限りを尽くす夫を前に、こう思うのだ。 〈今、ここに並んだ包丁の一本を手に取ったら、あとはふり返ってそっと前へ突き出すだけだ。鋭い切っ先は、まったく何の抵抗もなく、夫の肉体に滑りこんでゆくだろう。〉〈初めて知った。殺意というのは、もっと激しい感情とばかり思っていたのに、実際はこんなにも静かに研ぎ澄まされたものなのか。〉 咲季子は、踏みとどまった。けれど現実の事件で夫を刺殺した妻と、このときの咲季子とのあいだに、どれほど大きな差があるだろう。その一線は、殺してやるというかたい決意がなくとも、特別なことが起きたわけでなくとも、夫のふとした言動によって、たやすく超えられてしまうものではないだろうか。 桐野夏生の小説『OUT』で殺された夫は、家計に一銭も入れず、夫婦の貯金500万円をバカラ賭博で溶かしたというのに、謝るどころか妻の弥生に暴力をふるった。結果、弥生は夫の首をベルトで締め、パート仲間とともに遺体をバラバラにして捨てるのだけど、衝動的な殺意を招いたのは暴力ではなく、その翌朝放たれた「たまには優しくしてくれよ」というあまりに身勝手な夫のセリフだ。 ベルトを手にする寸前まで、弥生が願っていたのはただ〈こんな男は永久に帰って来なければいいのに。二度と顔も見たくないのに。〉ということだけだった。いや、全身で力をこめている首を絞めている最中ですら、彼女は死んでほしいとすら思っていなかった。ただ、これ以上顔を見たくなかった。存在していてほしくなかった。自分がやられたのと同じかそれ以上に苦しめてやりたかった。それだけなのだ。 自分が手をくだす前に、夫がいなくなってくれたら。できるだけ面倒のないかたちで失踪したり、あるいは事故か何かで死んでくれたら、どれほどいいだろう。それはきっと、咲季子も弥生も共通して抱いたことのある願いであるはずだ。そんな、妻たちのほのぐらい感情を描いた小説は、他にもある。 垣谷美雨『もう別れてもいいですか』の主人公・澄子は50代の主婦だ。友人の夫の訃報を知ったとき、悼むでも憐れむでもなくまっさきに羨ましく思った自分に澄子は驚く。それほどまでに自分は、夫を嫌っていたのかと。澄子の夫は、借金も浮気もなく、家に給料は入れるし、暴力をふるったりもしない。確かに咲季子や弥生ほどの追い詰められ方はしていないけれど、たまに出かけようとすれば「お前だけ楽しんでズルい」と嫌みを言い、「おう、トンカツ」の一言で明日の夕飯をつくらせようとする夫に、愛情なんて湧くはずもない。実の娘から「虫けら扱い」と言われるほどぞんざいにあしらわれ続けて五十歳を過ぎた彼女の、鬱屈は重い。 けれど澄子は、殺意に身をゆだねる前に、離婚に向けて動き出した。娘たちは自立したとはいえ、パート働きの彼女が一人で生きていくのはそう簡単なことではない。それでも自分の人生をとりもどすために奮闘する彼女の姿には、背中を押される。夫のことも、自分の心も、殺す前にたちあがる勇気が必要なのだ。 丸山正樹『夫よ、死んでくれないか』で「元気なまま死んでくれないかしら」と夫の愚痴を言うのは、主人公の麻矢ではなく、友人の友里香だ。モラハラ夫に苦しめられる彼女が離婚できないのは、ひとりで娘を育てられるほどの経済力がないからである。同じくモラハラ夫に苦しんだ友人・璃子がバツイチライフを謳歌できているのは、子どもがなく、そして稼ぎがあるからなのだ。ところがある日、そのモラハラ夫が、あることをきっかけに、理想的な夫に生まれ変わってしまう。そうなれば、友里香に離婚する理由はない。幸せな家庭を再構築しはじめるのだが、それは女性にとって、もっとも理想的な「夫の死」なのではないだろうか。彼女は決して、夫とやりなおしたいわけではなかった。今の自分を、生活基盤を、何一つ変えないまま状況を変えることができたら、それがいちばん幸せなのである。……となると、結婚って、夫婦って何なのだろうと深く考えさせられてしまう。 一方、麻矢のほうも、関係の冷え切った結婚5年目の夫が突然、失踪してしまう。その裏に女の影、しかも相手は璃子か友里香かもしれないということで、物語はがぜん盛り上がっていくのだが……。 すべての真相が明かされたとき「死んでほしい」と願うばかりで何も行動しなかったみずからの落ち度にもまた、麻矢は気づかされる。夫に理不尽な抑圧を受け、死んでほしいと願う妻たちの登場する小説ばかりを紹介したが、その逆も、いつだって起こりうる。逃げるにせよ、戦うにせよ、最悪の事態を防ぐために自分に何ができるのか、夫婦である以上、夫も妻も真摯に考えなくてはならないのだ。
立花もも